「久しぶりだね、猫くん」
桜庭書房の入り口で丸くなっている三毛猫に挨拶をした。彼(彼女かもしれない)は背中を丸め、寒さをしのいでいるようだった。私たち人間は分厚いコートを来ているから寒くないんだけれど、動物たちの毛はちゃんとあったかいのだろうか。
「久しぶり。元気だった?」
『ブラック時計』をつけているおかげで、桜庭書房の看板猫と話ができるのは嬉しい。
「元気元気。この時計のおかげでね」
「恵実のやつ、その時計、まだ持ってたんだ」
「え? それってどういう……」
意味深なことを言う猫に詳細を問いただそうとしたとき。
「恵実さん!」
私と三毛猫が話しているところに、後ろから女性がさっと店内に入っていった。「入った」というより、「突入した」というほうがぴったりかもしれない。すごい勢いで扉を開き、店長に迫る。背が高くて、私よりもずっと年上のお姉さん。大学生かな。
「めぐみさん」というのはおそらく芦田店長のことなんだろう。名前で呼んでいるなんて、仲が良いのだろうか。年齢的に、友達や学校の先輩後輩ではないことは分かった。
「彩夏さん。突然どうしたの」
芦田店長は、開いていた本をぱっと閉じ、素早く瞬きをした。前回会った時より、お腹が膨らんでいる。やっぱりこの人、赤ちゃんがいるんだ。
私の後に入ってきた女性も、彼女の膨らんだお腹をじっと見た。
私も、ブラック時計をつけたまま、狭い店内に立ち入った。店内に他のお客さんはいないようだ。
「彩夏さん」と呼ばれた女性は、呼吸を整えつつ、芦田店長に訊いた。
「恵実さん、もしかして妊娠してるんですか……?」
彩夏さんは、まるで信じられない、というふうに一歩、二歩あとずさりした。店長が妊婦さんであることが、そんなに驚くことなのだろうか。私には彼女の反応が不思議だった。
「ええ。隠しててごめんなさい」
芦田店長は、困ったように笑った。
「昴さんの……?」
「そう。今6ヶ月なの」
「スバルさん」という、また新たな人物が出てきて混乱したがおそらく店長の旦那さんに違いない。
「……おめでとうございます」
二人の間に、祝福と、戸惑いと、喜びと、愁いがごちゃまぜになったような空気が流れる。子供ができたことは喜ばしいことだろうに、やっぱり何か訳ありなんだろうか。
「ありがとう。それより、彩夏さん今日はどうしたの」
店長に尋ねられて、ようやく本題を思い出した彩夏さんが、「そうだ」と前のめり気味に店長に告げた。
「わたし、思い出したんです。『ブラック時計』、本当は昴さんのものなんですよね? 昴さん、いつもその時計をつけていた気がするんです」
「え……?」
反応したのは芦田店長ではなく、私だ。
女の人の口から『ブラック時計』という単語が飛び出してきたからだ。その時計は今、私の左腕にしっかりとはまっている。
遠くから声が聞こえて、芦田店長と女性はっとこちらを見た。
「あなたは確か」
芦田店長は私が『ブラック時計』を借りていることを知っているため、小さく頭を下げた。
「こんにちはっ。あの、この時計を返しに来ました」
私は左腕からブラック時計を外して、芦田店長に差し出した。一ヶ月間、この時計に助けられたことを思い出すと、少しだけ寂しかった。もう動物たちの声を聞くことはできない。けれど今は、彼らの声が聞こえなくても、友達や好きな人がちゃんといる。それで良いのだ。寂しいけれど、さようなら。
「わざわざありがとう」
「こちらこそ。私、その時計をつけていると動物たちの声が聞こえるようになりました。動物たちが、私に優しくしてくれて嬉しかったです。不思議な体験をさせてくれて、ありがとうございました」
この時計をつけた時、芦田店長はブラック時計の効果を知りたそうだった。だから、実験結果はちゃんと報告しなくちゃね。
「動物の声が聞こえるなんて、全く想像していなかったわ。新しい答えが見つかって、良かった」
芦田店長は受け取った時計を見つめ、そっと時計を撫でた。その姿が、まるで大切な我が子を想う母のようで。
私は、分かってしまった。
このブラック時計が、彼女にとってどれだけ大切なものなのかを。
「あなた、名前は何というのでしったっけ?」
「吉原です。吉原加奈」
「吉原加奈さん。それから、彩夏さん」
私たちの会話を横で聞いていた「彩夏さん」が、ごくりと唾を飲み込んで、芦田店長の次の言葉を待った。
店の中は、私たち三人の息遣いだけが響いている。暖房が効いていて、いつまでもここにいられる気がした。
「私の話を、聞いてくれる?」