その夜、わたしは弥生に電話した。大学に入学してから、わたしは何をするにも弥生と一緒だった。お互いに誰が好きだの、告白されただのと話すこともあった。大抵は、たまたま同じ講義を受けてひと言かふた言、話したことがある程度の相手だった。「イケメンだ」とこちらが一方的に「好きかも」と思うこともあれば、男子の方から突然告白してくることもあった。わたしも、弥生も似たようなことが続き、結局どの恋愛も、一時的な感情の昂りに終わる。容姿が格好いい、というだけで、心から人を好きになれたことはない。ただわたしたちは、恋に恋をしていただけだったのだ。
だから春人さんは、わたしにとって、初めて本気で心から好きになった人だ。
でもそれは、わたしだけじゃないのかもしれない。
わたしだけじゃなくて、弥生も。
「もしもし」
『彩夏……?』
わたしを呼ぶ彼女の声は、震えていた。別れ際、彼女に泣き顔を見せてしまった。必死に隠そうとしたけれど親友の彼女に、ばれていないはずがない。
「弥生。さっきは、はごめんね」
彼女からすれば、わたしが急に泣き出してこの雨の中、走ってどこかへ行ってしまっただけだ。なぜそうなったのか、きっと何も知らないだろう。
そう思う反面、弥生なら全てを話さなくたって、わたしの心中を知ってくれていると少し期待していた。その期待通り、電話の向こうで、弥生が「大丈夫?」と優しく聞いてくれた。彼女はわたしの全てを察していて、わたしが春人さんを好きなことも、春人さんから振られたことも知っているのだ。
「……大丈夫」
一体、わたしの中のどの強がりの虫が、言うのだろう。
帰宅して、びしょ濡れになった身体を温めるためにお風呂に入り、一通り寒さから逃れられたはずなのに、ぽっかりと空いた心の隙間が、まだ寒かった。
春人さんを好きだという気持ちが、行き場をなくして彷徨っているのに、その空いてしまった穴には絶対に入ってはいけないのだと思う。
『大丈夫じゃないときは、大丈夫って言っちゃ、だめなんだよ』
そう言う弥生の声も、心なしかいつもより覇気がない。躊躇いがある、と言った方が正確かもしれない。わたしを励ます言葉に、躊躇いがある。つまりそれは、彼女の心の中に、何か後ろめたい気持ちがあるのだということだった。
「うん、ごめん。あのね、弥生。弥生は知ってたんだよね。わたしが春人さんを好きだってこと」
早く解放されたかった。弥生とこのまま友達でいられなくなるんだろうか。そんな不安な気持ちから、早く。
『知ってたよ。誰かに聞いたんじゃないけれど、彩夏のこと側で見てて気づいた。でも、あえて言う必要もないかなって』
やっぱりそうだったんだ。
だから何ということはない。彼女がわたしの気持ちを知っていたとて、それは仕方がない話だ。察しの良い弥生のことだから、いちいち言葉にしなくても伝わってしまうのだ。
「そうだね。言わないでくれて良かった。わたし、誰にも言わずに春人さんのことを好きになってる自分に、ちょっと酔ってたんだと思う」
これは本当だ。
わたしは、自分がこんなに熱烈に誰かを好きになれるということを知らなかった。春人さんに恋をして初めて気づいたんだ。その気持ちは自分の中で喜ばしいものだったし、あえて誰かと共有しようなんて思わなかったから。
自分一人で楽しめれば十分だった。一人で向き合えれば、十分。わたしは春人さんが好き。わたしにも、こんなに人を好きになれるんだ。そのこと自体に、どれほど自分が酔いしれていたんだろう。
一人暮らしの部屋の中から、カーテンを開けて窓の外を眺めようとした。でも、気づかないうちに外は真っ暗になっていて、カーテンを開けたところで外の景色は何も見えない。見えるのは、反射した自分の姿と部屋の中の明かりだった。
『ごめんね、彩夏』
唐突に、電話越しに彼女が謝った。どうしてそんなことを言うのか分からない。彼女が悪いことなんて、ひとつもないじゃないか。
確かに、彼女がいなければ、春人さんはわたしを見てくれていたのかもしれない。不謹慎だから絶対に口には出せないけれど、そういうこともあっただろう。でもそれは結局、もしもの世界の話でしかないし、弥生がいても春人さんを振り向かせる努力をしなかった自分が悪いのだ。
どちらにせよ、彼女が謝ることはない。その必要は、どこにもない。
「弥生は何も悪くないでしょ。どうして謝るの」
彼女の顔が、見たかった。今、そんな表情でわたしの言葉を聞いているんだろう。少なくとも、明るい表情ではないだろう。鼻をすする音が、つんと耳の奥にこだましたのを考えると、その目が涙に濡れていることは分かった。
『違うの……っ。私が、悪いの。さっき、春人さんから電話がかかってきて、好きだって、言ってきて』
どくん。
自分の心臓が、一気に跳ねると同時に、分かってはいたけれど、想像していたことが現実に起こったことに対する動揺が、身体の真ん中を貫いて震えた。
「そう……春人さん、早いなあ」
確かにわたしとの別れ際、彼は弥生に告白すると言っていた。わたしが春人さんに好きだと伝えたからだ。それに触発されたんだ。
『私、嬉しかったの。私、春人さんが、好きだった』
か弱い声で、弥生が本音を口にするのを聞いて、わたしはどこかほっとしていた。
弥生が、わたしの気持ちを慮って本音を言えないんじゃないかって、気にしていたのもある。でもそれ以上に、とどめの一撃をくらって、これ以上傷つくことがないんだと確信したからだ。わたしは卑怯だ。弥生の口から、春人さんが好きだという想いを告げてもらうことで、自分の気持ちを落ち着かせようとしたのだから。
親友の彼女を、利用したのだから。
「そっか。弥生も、好きだったんだね。たまに春人さんと弥生が同じタイミングでスマホを見てることがあったのも、連絡とってたからなんだね」
『うん……』
そう。弥生はきっと、ずっと前から春人さんとLINEでやりとりをしていて、もしかしたら二人でデートなんかも行っていたのかもしれない。
自分が春人さんと多少うまくいっていることを感じていて、その上でわたしや香奈さんが春人さんを好きなことにも気づいていて。友達思いの弥生は、さぞ苦しかっただろう。もちろん、親友に裏切られた気分にならないといえば嘘になる。そんなに前から春人さんのことを好きだったのなら、わたしに一言教えてくれたらよかったのにって。でも、弥生はそうしなかった。春人さんへの気持ちと、わたしの恋が叶ってほしいという気持ちがバッティングしていたから。
弥生は、わたしの気持ちを尊重しようとし、自分の気持ちとも折り合いがつけられずに悩んでいたのだ。それなのにわたしは、自分の恋がなかなか叶わないことに囚われて、弥生の気持ちを察してあげられなかった。
「わたしは、弥生の気持ち知らなくて、気づかないうちに傷つけてたと思う。だから弥生が謝る必要は本当にない。わたし、弥生に幸せになってほしいよ」
これだけは、本音だった。
まだまだ私も、春人さんへの気持ちに折り合いがつけられていない。もし彼が今、わたしを好きだと言ってくれたら、たちまち弥生のことを忘れて春人さんの元へ駆けてしまうと思う。
けれど結局、選ぶのは春人さんだ。
春人さんが弥生を好きだというのだから、わたしは諦める。傷は、すぐには拭えないけれど、その分弥生が幸せになるなら、わたしはまだ歩ける気がするのだ。
恐る恐る、鍵のかかっていた窓を開ける。
まだ雨が降っていると思って、土砂降りで部屋の中に雨が入ってきたら嫌だなって。けれど、窓の外で雨はもう降っていなかった。代わりに、冷たい冷気が吹き付けた。暖房をつけ、ぬくぬくと温まっていた頬や首筋が、急に冷やされて痛い。痛い。もう、わたしはこれ以上、痛みを味わいたくない。
すぐに窓を閉めて、ふう、と息を吐いた。部屋の中と外で、こんなに気温差があるなんて。気温差でブルっと身体が震え、再び電話の向こうにいる彼女の声に耳を澄ました。
『ありがとう……彩夏。私、大学で彩夏と出会えて良かった』
「なにそれ、なんか、お別れみたいじゃん」
『確かにそうだね。じゃあ、これからもよろしくね』
「うん、もちろん」
大丈夫。わたしの生きる世界は、まだまだ温かい。外の空気が冷たくたって、心が傷ついて冷えたって、またすぐに温めてくれる人がいる。
お互いに、「おやすみ」と言って通話を切った。
部屋に残るのは、静けさ。わたしが声を発しなければ、この部屋で音を立てるものはいない。
春人さん。
わたし、本当に春人さんが好きだった。
でも、同じくらい、弥生が好きだよ。
だから弥生のこと、ちゃん守ってよ。
明かりを消して、ベッドの上、布団の中に潜り込む。温かい。いつかまたわたしが別の誰かに恋をしたら、今度こそ、同じぬくもりに触れられたらいい。


わたしが桜庭書房の店長、芦田恵実から預かった『ブラック時計』は、恋した人の恋する人を教えてくれた。決して幸せなことではなかったけれど、春人さんの気持ちを知って、弥生の気持ちを知って、わたしは一歩大人になれた気がする。まだまだ、傷を癒すのはこれからだけれど、一応感謝しておくか。
机の上に置いたその時計が、カーテンの隙間から差し込む月明かりに照らされて、幻想的に光っている。ところどころ傷があって、年季ものだと一眼でわかるその時計。
だんだん、まぶたが重くなってゆくのを感じた。今日はいろんなことが起こりすぎて、疲れた。
ゆっくりと沈んでゆく意識の中で、わたしはふと、思い出す。
ブラック時計。
桜庭書房。
店長の恵実さんと、旦那さんの昴さん。
控えめな恵実さんのそばで、「今日も来てくれたんだね」と明るく笑う昴さん。その手につけられた、黒い腕時計。

そういえばこの時計、昴さんがつけていたんじゃなかったっけ……?