「送るよ」
「はい」とも「いいです」とも言えなかった。ただ、好きな先輩と、好きだった先輩と、最後でもいいから一緒に過ごせるならそれで良かった。これからは、一緒に帰るなんてことはないのだろう。偽善でもいい優しさを、わたしは甘んじて受け取った。
春人さんは何も言わず、そのまま自分の傘の中にわたしを入れてくれた。相合傘、という言葉が頭にちらつくのに、気分は切なかった。
「……弥生に、好きって言うんですか」
雨の中を駆け出す前、様子がおかしいわたしを心配してくれていた弥生の優しい表情が脳裏に浮かぶ。弥生はとても良い子だ。だから彼女が春人さんを好きで、告白を受け入れたとしても、わたしは応援する
「そうだな、いい加減、伝えようと思う。彩夏ちゃんを傷つけてしまっただし。俺は臆病で、弥生ちゃんに振られるのが怖かったんだ。本当、馬鹿だよな。人のことは傷つけておいて、自分は傷つきたくないなんてさ」
馬鹿だよな、と笑う春人さんの気持ちを聞いて、皆同じなんだと分かった。片思いをしている自分も、その相手も、誰かの気持ちを知ることが怖い。相手が傷ついたらどうしよう、傷つけられたらどうしようと、永遠に考え続けて行動ができないでいる。わたしが恋焦がれる格好良い先輩だってこのザマなんだから、わたしが臆病だったのも、仕方ない。
そう思うと、ちょっとだけ、自分を許せる気がした。
誰しも恋愛で抱える悩みなんて、似たり寄ったりだ。
傷つき、疲れ、迷い、踏み出そうとしてやっぱり踏みとどまる。
それでも、恋をしている間は、幸せな気分になれる。
大学2年生にもなって恋愛とは何かなんてことに気がつくなんて今更なのかもしれないけれど、わたしが抱く気持ちは決して特別じゃない。誰もが皆感じることなんだ。
「ありがとうございます」
結局わたしの家の前に着くまで、春人さんは傘を差してくれていた。
「ううん。こっちこそ、話してくれてありがとう。それと——」
多分彼は、「傷つけてごめんな」という言葉を必死に飲み込んだんだろう。「いや、これはいいや」とその先の言葉をしまった。
「うん。言わないでくれると嬉しいです。今はまだ気持ちの整理がつかないけれど、春人さんのこと、わたしは突然嫌いになったりしませんから」
春人さんのためではない。自分のために言うのだ。わたしはわたしの気持ちと、気の済むまで付き合うつもりで。一度抱いた気持ちを、無理に否定しないようにするために。
「ありがとう。俺も、彩夏ちゃんのことが嫌いなわけじゃない。こういうとまた怒られるかもしれないけど、人として、仲間として本当に好きなんだ。だから、これからもよろしくな」
彼の頭上に見える「浦田弥生」の文字は、永遠に消えない。それを見て、わたしはやっぱり傷つかないことなんか、ない。この時計を外してしまえば、彼の気持ちはブラックボックスに戻るのだろうけれど、はっきりと文字が見えなくたって、もう分かる。
彼の、弥生への気持ちが本物だってこと。
覆すことは難しいのだということ。
だったら、早い段階で彼の気持ちを伝えてくれた『ブラック時計』に感謝するべきだ。
春人さんを好きな気持ちを抱えたまま、時間が経てば経つほど、消えなくなる。この気持ちに、取り返しがつかなくなる。
だから良かったんだと。
ただ、もしも他の誰かがこの『ブラック時計』をつけたとして、今わたしの頭の上に、誰かを想う気持ちを見るとするならば。
わたしの頭の上の「坂本春人」という文字も、悲しいくらい一生懸命大きくなろうとしているのだろう。