◆◇
「うわー、雨最悪じゃん」
サークルの練習がある日だから、自転車で大学に来たのに、あいにくの雨。三葉大学の学生は、電車通いの人と徒歩・自転車通いの人が半々だけれど、わたしは後者で気分によって自転車で行くか歩いて行くか変えていた。弥生に話すと、「なんで? 自転車の方が圧倒的に速いじゃん」と不思議な顔をされる。けれど、わたしは音楽を聞きながらのんびり歩くのが好きなのだ。自転車ですいすい大学まできて移動時間をとにかく惜しむという生活は性に合わないらしい。
ただ、平日サークルのある火曜日と木曜日は、体育館に行く必要があるため、決まって自転車だった。それなのにこうして雨が降るとせっかく自転車に乗ってきたのに、と思う。しかも、降るなら降るで、朝から降っていてくれれば、潔く大きい傘を持ってきたのにね。
放課後、いつものようにわたしは弥生と待ち合わせをして体育館に向かった。二人とも、潔く大学に自転車を置き、傘を差して歩き出す。結構な雨で、隣を歩く弥生の声が聞き取りにくいぐらいだった。
自転車だと10分で着くのに、歩くと30分もかかる距離。足や腕が極力濡れないように、傘でかばいながら歩く。
「彩夏、その時計、今まで着けてたっけ?」
わたしが右側に、弥生は左側にいたからすぐに気づいたんだろう。
わたしの腕に、黒光りする例の時計が、彼女の目に不自然に映っても、仕方がない。
「ううん。今日から着けてる」
「へえ。どうしたの、急に。見たところ新品という感じはしないけど」
「昨日、知り合いの人に貸してもらったの」
本屋の店長を「知り合い」というのは正しい表現なのか否か分からなかったが、まあ、お客と店員を超えた関係であるというのは認識としてある。
恵実さんの顔や声色を思い出しながら、わたしは弥生と一緒に、自分の左腕にはめられた『ブラック時計』を見た。
「貸してもらったの? それはまた、古風な趣味だね」
ははっと、軽く笑みをこぼす弥生。
子供のころ、友達と肩を寄せ合って、集めていたシールを交換したり、本やCDの貸し借りをしたりしたことはあったけれど、確かに「時計を貸し借りする」なんてことはしたことがない。マニアの領域だ。
「そう言われれば、そうかなあ」
「何か、変わった理由があるのね」
察しの良い弥生は、傘を持ったまま身体をくるりとわたしの方へ向け、今までになく聡明そうな瞳を向けた。
さすが、弥生。
話すつもりはなかったのに、そこまで察知されたらもう、話すしかない。
「わたしが通ってる本屋さんがあってね」
「ああ、確か『桜庭書房』だっけ」
「そうそう」
桜庭書房のこと、これまで何度か弥生に伝えたことがあったか、と思い出す。
「そこの店長さん——芦田恵実さんというのだけれど。その人とは顔見知りになって、知り合いとして普通にお話しする仲なんだけど。昨日お店で本を買おうか迷っていたら、この時計を着けてみて欲しいって言われて」
「ほう。なかなか、珍しい展開」
「変だよね。大体わたし、本を探しに来たのに。『もしかしたら、この時計がわたしの悩みを解決してくれるかも』って、恵実さんが」
「お悩み解決? なんで?」
頭の中に「?」がいっぱい出現しているであろう弥生。でも、ごめん、わたしも同じなんだ。
「その辺の詳しいことは分かんないけど、時計を着けたら『何かが見えるようになる』んだって」
「何かが見える? 小説か何かの設定なんじゃない?」
「うーん、確かに小説でも書いてるのかなあ」
恵実さんは読書家だから、確かに小説を書いていたとしても不思議ではない。でも、昨日彼女と話して、この時計をそんなに単純な理由でわたしに貸してくれたとは思えなかった。最後に見た恵実さんの切なげな表情が忘れられない。眉を寄せ、何かを思い返して辛くなっている。その“何か”は、言うまでもなく、亡くなってしまった旦那さん——昴さんのことだ。
昴さんが亡くなって、彼女には何度か会っていた。もちろんお葬式にも出たし、その後数回お店を訪れていたのもある。
昴さんが亡くなって2ヶ月以上経ったけれど、まだ一度も恵実さんが心から笑っているところを見たことがない。それも、仕方ないことだとは思っている。誰だって、こんな状況に陥って、すぐに回復できるわけがない。
だから、恵実さんがこの『ブラック時計』で何かが見えるようになるというのなら、それは昴さんに関わることなのかもしれない。完全に憶測だけど。
「何か、が見えるようになったら教えてよ」
完全にわたしの話を信じていない弥生が、若干わたしの方に向けていた身体をくるりと正面に向き直したから、水滴が飛んできて思わず顔を拭った。
大雨の中、二人で並んで歩く。黙々と進む。お互いの声が聞こえづらいから、結局ひたすら歩みをすすめることに必死になった。
地面を跳ねる雨粒を眺めながら、体育館で勢いよく跳ねるバスケットボールを思い浮かべた。
ボールを操っているのは紛れもなく、春人さんだ。想像の中でだって、思い出すのはいつも彼。
彼は今、体育館にいるのだろうか。着替えを済ませ、準備運動でもしているかもしれない。
「弥生、急ごう」
「え、ちょっと!」
時計を見ながら、練習が始まる十八時半を超えていることに気が付く。マイペースに歩く弥生の前に出て、先ほどより1.5倍速ぐらいのスピードで歩く。大学のサークルだし、特に遅刻という概念はないけれど、早く行きたかった。
早く、会いたかった。
「うわー、雨最悪じゃん」
サークルの練習がある日だから、自転車で大学に来たのに、あいにくの雨。三葉大学の学生は、電車通いの人と徒歩・自転車通いの人が半々だけれど、わたしは後者で気分によって自転車で行くか歩いて行くか変えていた。弥生に話すと、「なんで? 自転車の方が圧倒的に速いじゃん」と不思議な顔をされる。けれど、わたしは音楽を聞きながらのんびり歩くのが好きなのだ。自転車ですいすい大学まできて移動時間をとにかく惜しむという生活は性に合わないらしい。
ただ、平日サークルのある火曜日と木曜日は、体育館に行く必要があるため、決まって自転車だった。それなのにこうして雨が降るとせっかく自転車に乗ってきたのに、と思う。しかも、降るなら降るで、朝から降っていてくれれば、潔く大きい傘を持ってきたのにね。
放課後、いつものようにわたしは弥生と待ち合わせをして体育館に向かった。二人とも、潔く大学に自転車を置き、傘を差して歩き出す。結構な雨で、隣を歩く弥生の声が聞き取りにくいぐらいだった。
自転車だと10分で着くのに、歩くと30分もかかる距離。足や腕が極力濡れないように、傘でかばいながら歩く。
「彩夏、その時計、今まで着けてたっけ?」
わたしが右側に、弥生は左側にいたからすぐに気づいたんだろう。
わたしの腕に、黒光りする例の時計が、彼女の目に不自然に映っても、仕方がない。
「ううん。今日から着けてる」
「へえ。どうしたの、急に。見たところ新品という感じはしないけど」
「昨日、知り合いの人に貸してもらったの」
本屋の店長を「知り合い」というのは正しい表現なのか否か分からなかったが、まあ、お客と店員を超えた関係であるというのは認識としてある。
恵実さんの顔や声色を思い出しながら、わたしは弥生と一緒に、自分の左腕にはめられた『ブラック時計』を見た。
「貸してもらったの? それはまた、古風な趣味だね」
ははっと、軽く笑みをこぼす弥生。
子供のころ、友達と肩を寄せ合って、集めていたシールを交換したり、本やCDの貸し借りをしたりしたことはあったけれど、確かに「時計を貸し借りする」なんてことはしたことがない。マニアの領域だ。
「そう言われれば、そうかなあ」
「何か、変わった理由があるのね」
察しの良い弥生は、傘を持ったまま身体をくるりとわたしの方へ向け、今までになく聡明そうな瞳を向けた。
さすが、弥生。
話すつもりはなかったのに、そこまで察知されたらもう、話すしかない。
「わたしが通ってる本屋さんがあってね」
「ああ、確か『桜庭書房』だっけ」
「そうそう」
桜庭書房のこと、これまで何度か弥生に伝えたことがあったか、と思い出す。
「そこの店長さん——芦田恵実さんというのだけれど。その人とは顔見知りになって、知り合いとして普通にお話しする仲なんだけど。昨日お店で本を買おうか迷っていたら、この時計を着けてみて欲しいって言われて」
「ほう。なかなか、珍しい展開」
「変だよね。大体わたし、本を探しに来たのに。『もしかしたら、この時計がわたしの悩みを解決してくれるかも』って、恵実さんが」
「お悩み解決? なんで?」
頭の中に「?」がいっぱい出現しているであろう弥生。でも、ごめん、わたしも同じなんだ。
「その辺の詳しいことは分かんないけど、時計を着けたら『何かが見えるようになる』んだって」
「何かが見える? 小説か何かの設定なんじゃない?」
「うーん、確かに小説でも書いてるのかなあ」
恵実さんは読書家だから、確かに小説を書いていたとしても不思議ではない。でも、昨日彼女と話して、この時計をそんなに単純な理由でわたしに貸してくれたとは思えなかった。最後に見た恵実さんの切なげな表情が忘れられない。眉を寄せ、何かを思い返して辛くなっている。その“何か”は、言うまでもなく、亡くなってしまった旦那さん——昴さんのことだ。
昴さんが亡くなって、彼女には何度か会っていた。もちろんお葬式にも出たし、その後数回お店を訪れていたのもある。
昴さんが亡くなって2ヶ月以上経ったけれど、まだ一度も恵実さんが心から笑っているところを見たことがない。それも、仕方ないことだとは思っている。誰だって、こんな状況に陥って、すぐに回復できるわけがない。
だから、恵実さんがこの『ブラック時計』で何かが見えるようになるというのなら、それは昴さんに関わることなのかもしれない。完全に憶測だけど。
「何か、が見えるようになったら教えてよ」
完全にわたしの話を信じていない弥生が、若干わたしの方に向けていた身体をくるりと正面に向き直したから、水滴が飛んできて思わず顔を拭った。
大雨の中、二人で並んで歩く。黙々と進む。お互いの声が聞こえづらいから、結局ひたすら歩みをすすめることに必死になった。
地面を跳ねる雨粒を眺めながら、体育館で勢いよく跳ねるバスケットボールを思い浮かべた。
ボールを操っているのは紛れもなく、春人さんだ。想像の中でだって、思い出すのはいつも彼。
彼は今、体育館にいるのだろうか。着替えを済ませ、準備運動でもしているかもしれない。
「弥生、急ごう」
「え、ちょっと!」
時計を見ながら、練習が始まる十八時半を超えていることに気が付く。マイペースに歩く弥生の前に出て、先ほどより1.5倍速ぐらいのスピードで歩く。大学のサークルだし、特に遅刻という概念はないけれど、早く行きたかった。
早く、会いたかった。