彼女の話は、どんどん摩訶不思議な方向へ進んでゆくばかりで、思わず「はい?」と心の声が漏れそうになった。わたしの中で恵実さんは、トップ・オブ・ザ・常識人だったので、何か悪いものに取り憑かれたとしか思えない。そうでなければ、旦那さんを亡くしてしまった心の傷が、急に広がってきたのだろうか。
「この時計は『ブラック時計』といって、この店に昔からある腕時計なの。私のお父さんもおじいちゃんも、時計のことを知ってる。桜庭家に——あ、桜庭っていうのが私の旧姓で、失くさないように、皆で大事にしてきたわ。今は私が『ブラック時計』を守らなくちゃいけなくて」
彼女はその時計を、両手でぎゅっと包み込んで、胸に当てた。その姿は、親鳥がかえる前の卵を必死に温めているようだった。
それから瞳を閉じて、一呼吸置き、彼女は語った。
『ブラック時計』を着けた人は、その人しか見えない「何か」が見えるようになること。
何を見るかは、その人の心理状態に関係するとも言われているが、実際のところはよく分かっていないということ。
にわかには信じがたい話だったけれど、恵実さんが不必要に嘘を言うとは思えない。嘘でもなく本当でもないなら、この時計には人の心を惑わす魔力みたいなものが潜んでいるのかもしれない。
「ええ。でも、私はまだ納得できていなくて」
「納得?」
「この時計が、本当は何を見せてくれるのか」
「恵実さんは、それを知りたくてわたしにこんなことを頼んでいるんですか?」
「……うん」
幼い子供のような声だった。
そうしなければならない理由が彼女の中には確かにあって、だけどそれを正直に伝えることはできなくて。
友達が持っているおもちゃやゲームが欲しくて、「お母さん、買って」とせがんでいた自分の幼少時代を思い出す。「仲良しのいっちゃんが持っているから欲しい」のだけれど、それを母に正直に伝えたって、「いっちゃんちはいっちゃんち。うちはうち、でしょ」と真っ当なことを言われるだけだと分かっていた。だから、いっちゃんが持っているからなんて、絶対に言えない。彼女が持ってるから欲しいに違いないのだけれど、他人に通用する理由と自分の中にある確固たる理由は、必ずしも一致するとは思えない。
きっと、「ブラック時計の効果を知りたい」恵実さんの本当の理由も、彼女の中では明確で絶対に知らなければならないものだけれど、わたしたち他人には言えないんだ。
ううん、もしかしたらいつかは言えるようになるのかもしれない。
でもそれは、「今」じゃない。
「恵実さんの気持ちは分かりました」
流行りのゲームが欲しいと駄々をこねて母親の下す判定を待っていた子供のようなまなざしで、彼女はわたしを見た。
「着けてくれるの?」
「はい」
彼女の本当の目的が何なのか、わたしには分からない。でも、彼女が心底ブラック時計の真相を知りたがっていることだけは分かる。
「ありがとう」