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翌日は大学の講義が、3限までしかなかった。まだ2年生だから、1週間のうち丸一日休めるほどの余裕はなくて、まだまだ取得しなければならない単位が多量にあった。
だから、3限後に帰れるのは週に一度、水曜日だけだった。
いつもならとっとと家に帰って映画を見たり昼寝したりするだけの時間。それが至福の時間ではあるのだけれど、今日は違った。
現状打破。
昨日から頭から離れない四文字を、呪文のように心で唱え続け、大学構内をあとにした。
三葉大学から自宅まで直帰すれば10分もかからないのだけれど、今日は自宅を通り過ぎて、とある場所まで向かった。
 
桜庭書房。

わたしがよく訪れる本屋。
剥げかかった看板の前で、いつも丸くなって寝ている三毛猫を起こさないように、そっと扉を開ける。
木製の壁に木製の本棚、という古風なこの書店が、わたしのお気に入り。同じ時間にお客さんがいることはほとんどない。でも確か先日、高校生の女の子が店長の芦田恵実さんと何やら話をしていたのを見た。
女子高生が桜庭書房にいるのが珍しくて、つい横からじっと耳を傾けていたけれど、聞こえてきたのは「テスト」「答え」「時計」と、断片的すぎてよく分からなかった。

恵実さんに向かって素直な口を利いているその女の子が、古風な桜庭書房と全然雰囲気が合わないのに、堂々としている姿が眩しかった。普段、この書店に来る時には、恵実さんが一人カウンターの奥に座っているか、年配のお客さんが新書コーナーで立ち止まっているのを見るぐらいだ。彼女との遭遇は(あちらは遭遇したとは思っていないけれど)、桜庭書房ではレアイベントなのだ。

「こんにちは」
キキ、と扉を開けて店内に足を踏み入れると、いつもと同じ、紙の匂いがスンと鼻を刺激する。わたしはこの匂いが嫌いじゃない。埃っぽいという人もいるかもしれないが、この埃っぽさの中に、ロマンがあるとも言える。

店の奥のレジカウンターには、わたしがよく見知っている店長がいた。腹痛なのか、お腹に手を当てて本を読んでいる。
「あら、彩夏さん」
芦田店長が店に入ってきたわたしに気付いて、いつものように伏せていた顔を上げた。彼女はいつだって本を読んでいるからこうなる。まるで、本が友達だとでもいうように。
「今日は、何の本ですか?」
「これ、『痴人の愛』。彩夏さんは読んだことがある?」
文庫本の背表紙をわたしに見せてくれる芦田店長。
「ああ、いつだったか忘れましたけど、わたしも読みました。三年に一回ぐらい読みたくなりますよね」
「ふふ、そう。私もう、5回目くらいかしら」

恵実さんは、基本的には大人しい人で、表情も少ない。おそらくだけど、お客さんの中ではわたしが一番彼女と話せるのではないだろうか。

初めて桜庭書房に通い出したのは、それこそ大学生になったばかりの夏。一人暮らしが始まってようやく生活に慣れてきた頃、近くに本屋がないか探したのがきっかけだった。
ネット上のマップで見つけた桜庭書房を初めて訪れたとき、店内の様子が見えないのもあって、なかなか扉を開ける勇気が出ず、結局最初は入るのを断念した。

その後も何度か前をうろうろとしているうちに、たまたま店長の恵実さんが外に出てくるタイミングと重なって「あ」と声を上げたのが始まりだった。
「いらっしゃいませ」
その時、恵実さんは扉の向こうに突如現れた女子大生の姿に驚いたはずなのに、すぐににっこり笑ってわたしを迎えてくれた。
「あの、すみません。初めて来たもので、どうしようかなと迷っていて」
「そうだったんですね。ご来店ありがとうございます。ぜひお入りください」
現在の彼女と比べると、信じられないほど、当時の恵実さんは明るい表情をしていた。
性格上、元気に話すタイプではないけれど、今よりは、初対面の人でも朗らかに会話をしてくれていた。

その後、桜庭書房をすっかり気に入ったわたしが定期的にお店を訪れたときも、恵実さんは絶対にわたしの顔を見て微笑んでくれる。「今日も来てくれてありがとうございます」と、毎回律儀にお礼を言ってくれる。こんな素敵な店長が、この世の中にいたんだな、と大袈裟ながらに思ったのを覚えている。

「一瀬さん、というんですね」
「私は、芦田恵実と申します」
「あれ、一瀬さん、こういう本も読むんですね」
「一瀬さん、下の名前、彩夏さんといったかしら。今度からそう呼んでも良いですか」