「こんにちは……」
ここに来るのは二回目だった。
桜庭書房。
相変わらずお店の前で昼寝をしている猫を起こさないように忍び足で扉を開けた。
よし、今日も人はいない。
店長には悪いが、他にお客さんがいたらどうしようと心配したことが杞憂に終わる。
一度来たことがある店内なので、前回の時よりも臆せずレジカウンターまで進むことができた。
「芦田さん、こんにちは」
彼女は前来たときと同じように、文庫本を手に椅子に座っていた。
彼女の手に握られた本は、もうほとんどページが残っていない。
横の机には積み上げられた別の本。
本と本のあいだで、彼女は本の世界に没頭していた。
「いらっしゃいませ」
あたしの存在に気づいた彼女がゆっくりと顔を上げ、パタリと本を閉じた。
「あら、あなたは」と、あたしの顔をようやく思い出してくれたのか、はたまた左手の『ブラック時計』を見てあたしの存在を思い出したのか。
どちらにせよ、彼女があたしを認めるまで10秒はかかった。
「随分と、早かったですね」
芦田さんは、あたしがブラック時計の報告に来たと思っているらしく、「どうした?」と目で問いかけてきた。
「いや、まだ、分かりません」
古文の小テストでの出来事を伝えるのは躊躇われた。あの一回の事件が本当にこの時計の真実なのか、確証が持てなかったのだ。
「はあ」
報告に来たのではない、と分かると明らかに気落ちした様子で彼女は真顔になった。もともと表情が少ない人なのに、気分が下がったのは分かりやすい。
今度は、じゃあなんで来たの? という目をしたが、客が店に来ることを疑問に思わないでほしい。
「これが、本当に効果のある時計なのか、知りたくて」
彼女にはあえて「テストの答えが見えた」とは言わない。
あの一回を確信にしてしまうのが、怖い。
時計の真偽の証拠がないか探りたかった。
「効果は、あると思います」
「“あると思う”って言われても……」
なぜ曖昧な言葉を使うのか、気になる。
「私にも、はっきりと分からないのです」
「分からない?」
「効果があるのは分かっています。ただ、何が見えるか分からない。だからこうしてあなたに頼んだのです」
「でも、それって、これがただの時計かもしれないって可能性もあるじゃない?」
ちょっとイライラ気味のあたしは、淡々と喋り続ける彼女に意地悪したかったのかもしれない。
「いえ。実際にその時計をつけた人を、私は見ていましたから……」
そう言うとなぜか彼女は目を伏せて少し寂しそうにした。
まただ。
前回来た時も、芦田さんはこんなふうに時計のことを話しながら、何かを思い出して切なげな表情を浮かべていた。
その顔を見ると、これ以上彼女を問い詰めるのは良心が痛んだ。
最初はもっと『ブラック時計』の話を詳しく聞きたいと思ってやって来たけれど、何を訊いても彼女の中から確信的な言葉は聞くことができない。
やはり、あたしは実験台なんだ。
左腕の、黒い時計。
決して綺麗じゃなくて、年季が入っている。
誰かが使っていた形跡がむんむんとしている。
でも今は、あたしの時計。

あたしが、この子の真実をもう一度確かめるんだ。