小六の冬休み、新年を迎えたのを機に、舞花はすべての習い事をやめた。


 友達と遊ぶ時間が欲しい。

 友達と一緒に帰りたい。


 そんな理由だった。


 思えば、舞花が小学校から家まで歩いて帰ってきたことはほとんどない。

 それは同時に、友達と帰ることはほとんどなかったことを意味している。

 家に帰ってから友達の家に遊びに行くなんてこともなかった。

 それは土日も同じだった。

 習い事が休みであっても、「やるべきことをやってから遊びに行く」というのが約束だった。

 だから舞花は学校の宿題をして、次の日の準備をして、塾の宿題をこなして、ピアノの練習をして……。

 それらが終わらなければ、友達が誘いに来ても行くことはできなかった。

 そういう風に、僕たちがしていた。

 それでも学校には仲の良い友達がいたみたいだし、そんな舞花に愛想をつかさず足しげく誘いに来てくれたのだから、友達には申し訳ない気持ちと共に、感謝しかない。 
 

 そもそもどうして舞花はこんなにも習い事を抱えているのか。

 舞花がやりたいと言ったからじゃない。

 僕たちが良いと思ったからだ。

 舞花の将来のためと思ったからだ。


 ピアノはリズム感や音感はもちろん、協調性や想像力なども養えて、生きる上で必要な力がすべて育てられると思ったからだ。

 0歳からリトミック教室に通い、その延長でピアノ教室に通い始めた。

 もともと歩美もピアノを習っていたこともあって、その流れは自然であり、僕たちの中では暗黙の了解だった。

 習字は字が上手くなるだけでなく、正しい姿勢と集中力が身に着く。

 英語は小学校の授業で必須科目になるほど重要視されていることからもわかるように、国際社会で生きていく現代の子供たちには必須なのだ。

 学校の授業を待っていては遅いと思った。

 少しでも英語を使う環境に慣れ親しんでおけば、授業での抵抗感もないと思った。

 それはプグラミング教室も同様だ。

 塾だって通信教育だって、みんなに遅れを取らないように、むしろ同い年の子より先を行けるように、僕たちなりに舞花が困らないようにしたつもりだった。

 僕たちが選んだすべての習い事には、ちゃんと意味があるんだ。

 何となくやらせていたわけじゃない。

 共通して言えるのは、全部、舞花のため、ということ。

 生きていくうえで身に付けさせたい教養、考え方、知識、技術……。


__あとは何が足りないのだろう。


 そろばん教室、スイミングスクール、体操クラブ……。

 習い事は無限にあった。

 もちろんすべてに手を付けることはできないから、僕たち親が見極めてやらなければいけなかった。

 それが、親の責任だと思った。