「そうだ、朗報。神宮氏が教室を再開すると決めたって」
「本当ですか! 豊香さん、喜んでくれますね!」
「ああ。これで奥さんも、教室の看板を探して歩き回らなくて済むと思う」
「良かった。じゃあ奥さんも安心して」
――ん?
 お茶を飲もうとしたまま固まった。いま奥さんって言った? 言ったよね?
 それはつまり……。
「え。神宮さんが言ってた庭のあれって、正体奥さんだったんですか?」
「うん」
「だって雨の音が聞こえるって」
「豊香さんが亡くなったばかりだから、イメージを引き摺ってしまったのかな。マイナスのイメージは強く残るものだしね」
 成瀬さんは俯いたまま立ち上がると、棚から一枚のレコードを取り出した。グランドピアノが写っているジャケットはモノクロ。
「ドビュッシー、雨の庭。庭に降る雨がどんどん激しくなり嵐へ、そして嵐が過ぎ雲間から光が差し込むまで。その様子が浮かぶ様な曲だよ」
「ピアノ曲ですか? 神宮さんの奥さんも弾いた事あるのかな」
「そうだね。今度聞いてみようか……」
 もの言いたげに細く長い指がレコードジャケットをなぞる。何かを描く様に、ゆっくりと。
 私と目が合うと成瀬さんは穏やかに微笑んだ。
 隠れがちの瞳が真っ直ぐ自分に向けられている。それだけで、胸の奥が熱くなり心臓は早鐘を打ち始める。
 この気持ちを恋と呼ぶのか、私には分からなかった。単純に考えている事を見透かされていないかとドキドキしているだけかもしれない――そんな風に思ったりもするのだ。
 だって成瀬さんは『ヴァッサーゴの隻眼』だから……。
「陽菜さん。陽菜さんが雨の日を嫌う理由……僕には分かるんだ」
「えっ!? やっぱり!?」
 突然の告白に私は思わず大きな声を出してしまった。成瀬さんは苦笑する。
 この間の「雨の日は苦手だったよね」発言の違和感は、気のせいじゃなかったんだ。
「それも……ヴァッサーゴの力で? でも私、なにも探してないけど」
「雨の日は良くない、良くないことが起きる。陽菜さんはマイナスイメージをずっと引き摺ってるんだよ。神宮氏みたいに」
「どうして……」
 少し声が掠れた。