寄贈してくれる本は全て奥さんのもので、図書館に送る予定を早めて欲しいという申し出は、恐らく引っ越しの関係だけじゃなかったのだろう。
 一冊一冊確認しながらの作業は、同時に記憶を振り返る時間になる。あんなに沢山の本――成瀬さんを待たずにダンボールに詰めてしまった気持ちを想像すると切なさで胸が痛んだ。
 それにしても成瀬さん、よくこの本をピンポイントで取り出してきたものだな……。
「ドヴォルザーク、交響曲第九番第二楽章。ご家族と何か縁がある曲ですか?」
 成瀬さんの言葉にハッと顔を上げた神宮さんは、驚いた様子で「ああ」と頷いた。
「妻と豊香が好きで……豊香にせがまれよく弾いたものだよ。あの子が所属する楽団の演奏会が来週あるのだけど、この曲も演奏が決まっていてね。とても楽しみにしていた……叶わずに終わってしまったが」
 脳裏に豊香さんがヴァイオリンを演奏していた姿が蘇る。
 伸びやかに。歌うように。透き通った高音。
 帰れないと分かっても、豊香さんは穏やかだった。

『いいの。私の想いは、ヴァッサーゴの隻眼が届けてくれるから――』

 成瀬さんが届けた言葉。
 お父さんの弾くヴァイオリンが大好きだった豊香さん。

『それから、やっぱり本は読んだ方がいいよ。お母さんも絶対そう言うからね』

 奥さんが一番大事にしていた本『銀河鉄道の夜』の中にあった、思い出の家族写真――豊香さんが教えてくれた秘密。

 点と点が結ばれていく感覚に心が震えた。成瀬さんと豊香さんの間にあったあのピアノ線の様な糸――透明な言の葉が、視えた。
「豊香さんは遠い場所に居てもお母さんと二人で神宮さんの幸せを祈ってるんだ。もしかして大切な場所を守ってって、この家だけじゃなく教室のことでもあるんじゃないかな? だってこの写真のみんな本当に幸せそうで、私すごく羨ましいんです。本当の家族と大切な居場所ってこんな感じなんだなって……。ここからヴァイオリンとピアノの音、豊香さんの歌声が聞こえてくるみたい。いいな……」
 思わず出てしまった言葉だった。
 親の顔も知らない。私は捨てられたんだと何度も思った。施設の大きな家族感は大好きだったけれど、ふとした瞬間に寂しさを感じることも多くて。
 神宮さんの寂しさは私とは比べ物にならないくらい辛いと思う。それでもきっと、家族の絆は素晴らしく輝いて、立ち止まった時に背中を押してくれる力になるのだろう。