「あ、あの。引っ越さないで、ここにいましょうよ。本は予定通り鈴原文庫で預かります。だから神宮さん、うちに読みに来てください!」
「えっ……?」
 私の提案に神宮さんは目を丸くした。
「僕も陽菜さんの提案、とても良いと思います。どうでしょう、神宮さん。うちは来館者も少ないですし、静かにゆっくり過ごせるかと」
 成瀬さんが優しく微笑む。
 神宮さんはかなり迷っているようだった。「しかし……」と呟き、コーヒーの湯気をぼんやりと見つめた。
「この家は、思い出が多すぎてね。どの部屋にいても、あれこれ考えてしまう。気がつけば置いて行かれた恨みを口にしていたり。悲しいことだと思わないかい? 二人はいつも写真の中で笑っているのに……私だけが……」
「そ、それは」
「陽菜さん……。私は、この家の愛しさが怖いのだよ。これからどう生活していけばいいか、何を頼りに生きればいいのか――」
「…………」
 私達は顔を見合わせた。
 確かに、神宮さんの気持ちを考えれば、思い出が詰まったこの大きな家にずっと一人で暮らしていくのは辛いと思う。
 玄関にひっそりと置かれた音楽教室のプレートも、廊下にある絵画も、柱に刻まれた豊香さんの成長の記録も。私達から見ればただの物でしかないけれど、神宮さんには、そのひとつひとつから温かな空気が溢れていて、奥さんや豊香さんの気配のように感じるのかもしれない。
 でもそれは、ここから離れたら消えるのかな……?
 目を閉じれば見えなくなるものなのかな……?
「神宮さん、今日僕らが伺った理由は、お渡ししたいものと、お伝えしたいことがあったからです」
「え?」
 成瀬さんがマサシさんを促す。マサシさんは頷くと、大きなリュックからヴァイオリンケースを出し、神宮さんへ渡した。
「これは!? 一体どこで」
「リサイクルショップで売られていたのを、彼が」
「俺は祥一朗に頼まれなかったら、探しにも行かなかったですよ」
「ああ……間違いない……豊香のヴァイオリンです」
 ケースを開け確認する神宮さんの指は震えている。もう見つからないと諦めていたのだろう。大きく見開かれた目からひと粒の涙が落ちた。
「豊香さんってケース沢山持ってたんですか? お花のところにも可愛い色のがあったし」
「普段は軽量型のあちらを使っていたんだよ。これは私が、もう必要ないからとヴァイオリンごと豊香に譲ったもので。……この手では満足に弾けないからね」
「あ……」
 豊香さんは父親が手放したヴァイオリンを時々弾いては、「仕舞いっぱなしはかわいそうだよ!」と笑っていたそうだ。
 事故の日から消えてしまったヴァイオリン。それが自分のものだったゆえに、神宮さんは探し回ったりはしなかった。豊香さんのものが残っていればそれでいい。すでに弾くことをやめてしまっていた神宮さんは、かつての相棒にはもう全く執着が無かった。