「陽菜さん。大丈夫?」
 成瀬さんが耳元で囁いた。ポロポロ出てくる涙を掌で拭ってくれる。平気ですと頷いたけど、涙は止まらなかった。泣いているところを見られるのが恥ずかしくて俯いた私。でも成瀬さんは、そのせっかくそらした顔をぐいっと指で上げてきた。ひえっ! と固まっているうちに目の前に端正な顔が近づいてくる。
――だからこの人は~っ! 近いから! 距離がおかしいから! 眼科医でもこんな寄ってこないから!  これじゃあまるで、まるで……
「……」
「……陽菜さん」
 キスする寸前みたいじゃないの……
「おい、祥一朗!」
 マサシさんの小声に成瀬さんがハッと動きを止めた。その瞬間、成瀬さんの吐息が唇に触れた気がして。軽くパニック、目の前がチカチカする――。
「なぁ……彼女」
 いつの間にか豊香さんの演奏は終わっていた。
 私は慌てて本棚にかじりつき彼女の様子を覗く。
「俺らが隠れてるの、気付いてるのか?」
 マサシさんが呟く。豊香さんは黙って私達の方を向いていた。
「……みたいだね」
「出ていきますか?」
「陽菜ちゃん待ってヤダ、それは怖い」
「いや……その必要はないかも」
 成瀬さんが眩しそうに目を細める。逆光で豊香さんの顔は見えなかった。ただ陽の光が彼女の輪郭をくっきりと浮かび上がらせる。冷たく濡れていた気味の悪い黒い影はもうどこにもない。かわりに《神宮豊香》の優しい影がそこにあった。
 ヴァイオリンを抱きしめて豊香さんはお辞儀をした。そして顔を上げた彼女はこちらをジッと見つめ、もの言いたげな雰囲気を。
「成瀬さん、豊香さんは――」
 何が言いたいんだろう? と私は聞きたくて隣を見上げる。
「…………」
 やめて、なにそれ。
 そう一瞬思ったくらいにはショックを受けた自分がいて。胸の奥がスッと冷えた。
 豊香さんは成瀬さんを見つめている。成瀬さんも、豊香さんを見つめていた。本棚という障害を物ともせず二人を繋いでいる、ピンと張ったピアノ線のような糸。
――見なきゃよかった。見えなければよかったのに。なぜ私にはこれが見えるんだろう……。