ヴァイオリンケースをなぞる黒い指。太陽光が当たると、泥に汚れ剥がれた爪が、綺麗に整えられた爪になっていく。濡れて重そうだった乱れ髪も、サラサラに。
「……わぁ……」
「綺麗だね」
「すげぇ……」
 オフホワイトのワンピースを着た豊香さんは、私の位置からは顔が見えなかったけれど、きっととても美人なんだろう。光に透ける細い線に感嘆の声がもれた。
 ケースの蓋を開けた時、豊香さんはクスッと微かに笑った。ヴァイオリンをかまえる後ろ姿。指揮者がタクトを振るように、ゆっくりと弓が半円を描く。
……そして一音。
 それだけでドキドキした。これから、彼女の出す綺麗な音が音楽を奏でるのだ。
 私は、自分が弾くわけじゃないのに気持ちを整えるため深呼吸した。

 ドヴォルザーク 交響曲第九番 第二楽章
 新世界より 「遠き山に日は落ちて」  

 オーケストラではイングリッシュホルンが担当している旋律を、豊香さんのヴァイオリンが奏でる。  
 心地よく鼓膜に響く、透き通った高音。伸びやかに歌っているみたいだ。
 窓をつたう雨の雫がきらりと光り、豊香さんのロングストレートの髪が夕暮れのオレンジ色の中たゆたう。
「すごい……」
――知らず内に涙がこぼれた。
 なんて綺麗なんだろう。だけど……とても切ない。寂しさに胸が震える。
「……」
 私にはどうしても『これで家に帰れるんだ』と喜んでいる音に聞こえなかった。『ただいま』ではなく『さようなら』と言っているような――。
 彼女は演奏を終えたら消えてしまうんだ……そんな予感がした。
 それが《成仏》だというならば、私達は彷徨う霊に対してやるべきことをやったと思っていいのかもしれない。
 でも、それじゃあ余りにも悲しくない?
 豊香さんの家まで送ってあげることは出来ないのだろうか……。彼女は「帰りたい」って言っていたのに。