ぽたり。ぽたり。
 床に落ちる滴は、秒針のリズムと同じで。
 ぽたり。ぽたり。ぽたり――。
 豊香さんと対峙する成瀬さんはピクリとも動かない。
 沈黙が破られるまで、水滴はいくつ落ちただろうか。極度の緊張から思わず息を止めていた私が深呼吸するまでの間だから……三十粒は落ちたはず。
 成瀬さんがやっと口を開いた。
「遠き山に、日は落ちて――」
 それは、聞き覚えのあるフレーズだった。
 抑揚無く発せられたのは、曲名。
 私の脳内には勝手にメロディーが流れる。有名な曲だ。何度も聞いたし、学校などで歌ってきた。
 豊香さんも同じだったらしい。歌っているのか土気色の唇が動き、彼女の吐く白い息が濃さを増す。
――と、それまで足元で漂っていた冷気が、豊香さんに呼応したかのように一気に胸元まで巻き上がってきた。
「っ!」
 私の吐く息もすぐに真っ白になった。吸った空気が気管を通っていくのがよく分かる。何、この寒さ――冷凍庫に放り込まれたみたいだ。
 太陽の光が降り注ぐ部屋で寒さに凍える幽霊。
 服や髪から滴る水が水たまりをつくる。そこに、豊香さんの涙が落ちた。
「……りたい……かえりたい……帰りたい……。でも……っ!」
 自分の泥だらけの手を見て、豊香さんが目を見開いた。爪が剥がれ、血と泥で固まった指先。
「……さがして……」
 これで何度めの懇願だろう。彼女は嗚咽を漏らした。
「ヴァッサーゴの隻眼――早く……」
 成瀬さんにグッと顔を寄せ、豊香さんが言った。
 焦っているとも怒っているともとれる、今までで一番低く、唸るような声だった。彼女から溢れる涙が泥水になり、黒い指先と長い髪がどろりと溶けたように歪む。せっかく瞳に光が射し人間味を取り戻した豊香さんが、前よりも恐ろしい姿に変わろうとしていく。悪霊、という文字が頭をかすめた。
「な、成瀬さん……!」
「大丈夫。怖くないから」
 ぐいっと肩を引き寄せられた。成瀬さんの顎が頭に触れる。白いシャツからジャスミンの香りがし、頬にあたたかな体温も感じて、五感を実感する。
 私と彼は生きている――。
 豊香さんとの間に、目には見えない高い高い壁があった。
「少し時間がほしい。明日の夕方にまたおいで。それまでに見つけておくから」
「…………」
 返事はないが、豊香さんは納得してくれたみたいだ。湿った土の匂いと冷気が、本棚の向こうへ消えていく。
「ごめんね、ひとりにして」
 成瀬さんの優しい声を聞いたら全身の力が抜けて汗がドッと吹き出てきた。
「いえ、そんな……」
 成瀬さんは悪くない。豊香さんも、悪くない。
 誰も謝る必要なんて……ない。

――帰りたい…… 。

 豊香さんの声が耳にこびりついていた。