「……成瀬さん? 戻って来たの?」
 声を掛けると、微かな音がまた。
 相手の返事を聞こうと黙って音に耳を傾けた。
 コツン
 本棚の向こうから聞こえてきたのは成瀬さんの声ではなく、足音だった。ただ、彼のものではないとすぐに解った。この足音は男性のものじゃなく女性だ。ヒールの靴音。
「……え、ちょっとまって……」
 それに混じる他の音に気付いた私は、椅子から思わず立ち上がった。
 音は近づいてくる。ゆっくりと。
 ヒールの音、そして……水の滴る音。
 静かなフロアーに異様な気配。私にはすぐに解った、それが何なのか。誰なのか。 昨日の、あの女性の霊だ。
「二階……司書……」
 昨日と同じ、抑揚の無い声が聞こえた。低くかすれた霊の声に全身が凍る。明るいフロアーに一つの大きなシミの様な影。じっとりと濡れた気配をまとうその影が、靴音と水音を出しながらこちらに向かって来ている。
 ゆっくりと響く音から逃れようと足を動かそうとした。だけど、嘘みたいに身体は動かなくて。金縛り? 恐怖からか声も出せない。
「《ヴァッサーゴの隻眼》を探しているんです」  
 目の前に現れた彼女は前と同じことを言った。
 濡れた衣服と長い髪から落ちる滴が私の足元を濡らす。それくらい、私と彼女の距離は不自然なほど近い。こんなに近いのに、髪に隠れ表情が見えないのが恐怖を倍増させる。
「さがして」
 濡れた土の香りとひんやりした空気が鼻先に触れた。あまりの近さと恐怖に私の身体はガタガタ震え始める。今までこんな怖い思いをした事はなかったのだ。それは幽霊を見慣れた自分が初めて経験する、異種の者への恐怖だった。
 私は司書じゃない
 言いたい言葉は全く音にならず。私は、少しだけ動く首を小刻みに横に振って自分の意を伝えようとした。
 だけど、強張る私の顔とその動きを、彼女は違う意味で捉えたらしい。私が拒否したと思った様だ。
 ピクリと肩で反応した彼女は「何故?」と呟いた。低い低い声で。
「おしえて……おしえてください」
 伸びてきた黒い指。指先も掌も、泥で黒く。爪の数枚は剥がれてしまっているのか赤黒く見えた。
 その指先が私に触れようと近づく。
「……っ……!」
「さがして。……おしえて」
 一瞬だけ、隠れていた彼女の瞳が見えた。虚ろなそれは、命の輝きを失った、ただの黒。
「いやあぁっ!」
 震える身体に思い切り力を込める。
 助けて
 冷たい空気を声で跳ねのけようと、私は叫んだ。
「助けて……! 誰か……」
 へたり込んだ私に黒い女が覆いかぶさってこようとした。
 寒い。
「成瀬さん……」
 このまま闇に包まれて、ゆるやかに命が消えていくのだろうか――。