白い……
……真っ白な光。
強烈な痛みと共に降り注いでくるそれに、私の視界は焼き尽くされる。
まばゆく溢れる光のあとには、ひたすらに、深い闇だけが残った。
----------
「葵さん」
囁くような声に呼ばれ、彼の許に降り立つと、彼を取り巻く空気がかすかにふわりと揺らいだ。
微笑んだのだろうか。私を見て……?
声変わり前のあどけない声が、もう一度私を呼ぶ。
「葵さん? どうかなさいましたか?」
「……いえ、なんでもありません」
僅かな動揺も見透かされてしまいそうで、跪いた姿勢から、さらに頭を下げる。
光を宿さない目を隠す為に伸ばした前髪のおかげで、こうしていれば、彼……久居様に私の表情は見えないはずだった。
「お忙しいところ申し訳ないのですが、この書簡を譲原皇まで届けていただけますか?」
両手で大事そうに差し出されたそれを受け取ると、確かな重さを感じる。
ちらと覗いた彼の輪郭は、やはりまだ青年と呼ぶには早すぎる、少年のそれだった。
六年前、加野様にどこからともなく拾われてきたこの少年は、一年前まで菰野様の遊び相手を仕事として、加野様に養われていた。
それが、今では菰野様の側近として、大人達に交じって城に勤めている。
朝は、菰野様が目を覚ます直前まで、周辺の見回りや本日出勤の人員を下働きに至るまで確認したりと忙しく動き回り、夜も、菰野様が寝付かれてからやっと自分の事に取り掛かるこの少年が、一体いつこれだけの量を書くというのだろうか。
私も同じく、人より早く起き遅く寝る生活をしているわけだが、今年で二十歳の私でも朝の辛い日がある。
里でそのための訓練を受けてきても、なお……だ。
それなのに、この少年は、今年でやっと十四になろうかという歳だった。
「はい。必ず、譲原皇にお届けします」
受け取った書簡を丁寧に懐へ仕舞い、顔を上げて答える。
「ええ、お願いします。葵さん」
私の名前を口にし終えて、彼をいつも包んでいる張り詰めた空気が、ほんの少し和らいだように感じた。
大事な書簡を私に預けたことで、目の前の少年が安心した……。
これだけの事が、私にとってどれだけ重大なのか、きっとこの少年は気付いてはいないだろう。
そしてきっと、これから先も気付くことは無いだろうと、私は確信していた。
----------
久居様の部屋を後にして、西の丸から本丸へと向かう。この時間ならまだ譲原皇は自室で公務をなさっているはずだ。
本丸は昼夜を問わず周囲を警備兵が見回っているが、今夜は有難いことに、星ひとつ見えない暗い夜だった。
兵の薄い部分を抜けるだけで十分だろう。
気配を消すことや、闇に紛れることに関しては、相当自信があった。
武や術では里で人並みの成績だった私がそれにもかかわらず城勤めの推薦を受けることができたのは、沢山の人の中で諜報活動をする際に、この能力がもっとも重要であるからだ。
そんな私にも、ただ一度だけの失敗があった。
そう。ちょうど今夜のような、月も星もない真っ暗な夜……。
城に勤めるようになって半年。
同じ里からの先輩が四人勤めている中、血生臭い仕事はそちらを得意とする先輩に振られるため、私の仕事は主にちょっとした伝言や届け物などのお使いばかりだった。
おそらく、譲原皇のご配慮だったのだろう。
城にも仕事にも慣れてきて、確かに少し気配の消し方が甘かったのかもしれない。
それでも、真っ暗い夜に、明かりも無い場所で、たった十歳の少年に姿を見咎められるとは思いもしなかったのだ。
それも、三百尺(約百メートル)以上も離れた場所から……。
「そこで、何をしているのですか!」
遠くからでもよく通る子供の声に思わず振り返ると、全身に警戒を纏い、こちらを睨みつけているであろう少年がいた。
それが、久居様に初めて姿を見られた時だ。
それから、私の仕事は菰野様の身辺警護となった。
始めの三年間は、他の仕事もしつつ、手が空けば菰野様の様子を見に行って……という程度だったが、一年前からは基本的に四六時中、菰野様に張り付く事となった。
理由は分からないものの、菰野様が何者かにお命を狙われていることは明白で、現に久居様は度々その危機に瀕していた。
譲原皇も、とても仲の良かったお姉様である加野様を妖精の呪いにより急に失い、そうとう堪えていたご様子……。
この上、お姉様の忘れ形見である、可愛い甥までも失いたくないと思うのは当然の事で、菰野様付きの護衛も、一年前には城勤めの隠密のうち、一番腕の立つ先輩に立場を譲る事になりかけたのだが、久居様の希望により、今までどおりの私で任務に当たる事となった。
久居様の仰るには、菰野様のお命が狙われている事実を、菰野様自身には出来る限り知られないように事を運びたいのだそうで、連絡係ともなる隠密には、気配を消すのが得意で繊細な気遣いができる者を、という事だったらしい。
それを聞いた上でも、心のどこかでそれ以上の何かを期待してしまうのは、やはり、私が間違っているのだろう……。
ちなみに、十歳の少年に姿を見られた話が先輩達に伝わった時には、私は、それはもう叱られたりからかわれたりと忙しいものだと思っていたのだが、驚いたことに先輩達は口を揃えて「彼の前で見つからなかったことが無い」と言った。
報告の際、譲原皇よりお咎めが一切なかった事も、この前例が数あった故だったのだ。
----------
考え事をしながらも、譲原皇の自室、その天井裏に到着する。
譲原皇は、やはり、小さな明かりをひとつ机の上に置き、一人で書類と向き合っていた。
加野様がいらっしゃる頃は、いつもお二人はご一緒で、このような時にも机にはちょっとしたつまめるものと良い香りのお茶が添えられて、加野様は縫い物などをしつつ、譲原皇の仕事が終わるまでお傍にいらっしゃった。
時々、思い出したように今日の菰野様のお話などをされながら過ごすお二人の間には、残務処理中であったとしても、いつも温かい時間が流れていた。
声ひとつ無い部屋にそっと降り立つと、譲原様を驚かせてしまうことの無いよう慎重に声をかけ、書簡を手渡した。
ちょっとした使いにも、律儀に労いの言葉をかける譲原様のお声が、どことなく疲れている。
お早めにお休み下さいなどと言うわけにもいかず、せめて素早く立ち去ることにする。
久居様は、もうお休みになっただろうか。
事後報告をするようにとは言われていなかったが、書簡を無事に届けたことを告げれば、あの少年はもっと安心するかも知れない。
そう思ってしまったが最後、居ても立ってもいられなくなり、結局また西の丸まで引き返してしまった。
そっと天井裏から久居様の様子を窺ってみる。
いつもと変わらない緊張を纏って、彼は布団の中にいた。
身じろぎも無いその姿、おそらく眠ってしまっているのだろう。
残念ながら、私はこの一年ほど、久居様が完全に緊張を解いている姿を見たことがなかった。
いつの頃からか、寝ているときですら、起きているかどうかの判別が付かないほどの緊張感を、この少年は纏い続けるようになってしまっていた。
それが、私にはどうしようもなく悲しかった。
思わず片手をあげ、目頭を押さえると、ほんの少しだけ、音もたたない程度に天井裏が軋んだ。
「……葵さん?」
小さな声にハッとする。
起きていたのだろうか。それとも、私が起こしてしまったのだろうか……。
「どう、なさったのですか……?」
久居様が、少し眠そうな声で、それでも慎重に言葉をかけてくる。
「いえ、その、書簡をお届けしたことの報告にと思ったのですが、お休みでしたので、引き返そうかと……」
慌てて答えるも、なんだか言い訳がましくなってしまった。
「お休みのところを申し訳ありません……」
久居様がゆっくりと身体を起す気配がする。
「そうですか、ありがとうございます。お蔭様で安心して眠れそうです」
少し和らいだ空気にあてられて、胸がジンとなってしまう。
本当に……私には、本当にこんなことしか出来ないのだろうか。
何か他に、彼の力になれることはないのだろうか……。
ほんの少し、黙ってしまった私を見て、久居様が言葉を加える。
「気になさらないで下さい。私は、その、人より少し夜目が利くのです」
どうやら、私が彼を起こしてしまったことを気にしているのだと思われているようだ。
それにしても、真っ暗闇の中、三百尺以上離れたところから黒装束を認識できることのどこが「少し」なのだろうか。
「暗闇の中では、私の目は赤い色になるのだそうです。
実際、暗闇の中で物を見ているときは黒と赤で見えるのです……が……」
ふいに、久居様の声が力を無くす。
「久居様?」
「すみません、色というのは、葵さんには……その……」
申し訳なさそうに気配ごと小さくなってしまった少年の態度に、やっとその言葉の意味に気付く。
「大丈夫です、分かりますよ。私も、城勤めが決まるまでは皆さんと同じく見えていたのですから」
極力、優しく届くように声をかける。
この少年の心を、微塵も痛めたくなかった。
「そうなのですか?」
どうやら、彼は私が生まれつき盲目なのだと思っていたようだ。
「空の青、眩しい緑、茜色の夕日もまだはっきり覚えています。きっと、一生忘れません」
私の言葉に、彼の空気が弛む。
「最後に見たのは太陽です。真っ白い、すべてを包む光の色」
ハッとなった少年に、私も我に返る。
彼の弛みが嬉しくて、つい要らない事まで口にしてしまったようだ。
「そ、それにしても、暗闇で赤く見える目というのは珍しいお話ですね。はじめて聞きました」
全力で、話を元に戻す。少々強引ではあったが、この際だ。
「ええ、私も他に聞いた事はありませんし、譲原皇より口外を禁じられているので、相当珍しいのだと思います。
そういうわけですから、私が葵さんに気付いてしまうのは、私の体質であって、葵さんが責任を感じるところではないのですよ」
久居様が、それを受けて、しっかり出発地点まで話を戻してくる。
譲原皇に口止めされている……?
そのようなことを、私を励ます為だけに口にしていいのだろうか。
この、歳のわりに驚くほど慎重で冷静な久居様が……??
彼に信頼されているという事が、私には何にも変えがたいほどに嬉しかった。
きっと、私がこんな気持ちになっている事など、彼には思いもよらないのだろう。
けれど、それでいいと思う。
今はとにかく、度々危機に陥る彼を、失わないように生きる事で精一杯だった。
この少年が、出会った頃のように安心して、心弛めて過ごせる時が来るまで。
できればその先も。
この世が泰平であってくれれば……
私が、この城に居られれば……と心から願いつつ、その日は眠りについた。
……後になって疑問に思う事がひとつ。
少しでも光が差す場所では黒いままのその目が、真っ暗闇で赤くなるという事を、彼に教えたのは誰だったのだろうか……と。
……真っ白な光。
強烈な痛みと共に降り注いでくるそれに、私の視界は焼き尽くされる。
まばゆく溢れる光のあとには、ひたすらに、深い闇だけが残った。
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「葵さん」
囁くような声に呼ばれ、彼の許に降り立つと、彼を取り巻く空気がかすかにふわりと揺らいだ。
微笑んだのだろうか。私を見て……?
声変わり前のあどけない声が、もう一度私を呼ぶ。
「葵さん? どうかなさいましたか?」
「……いえ、なんでもありません」
僅かな動揺も見透かされてしまいそうで、跪いた姿勢から、さらに頭を下げる。
光を宿さない目を隠す為に伸ばした前髪のおかげで、こうしていれば、彼……久居様に私の表情は見えないはずだった。
「お忙しいところ申し訳ないのですが、この書簡を譲原皇まで届けていただけますか?」
両手で大事そうに差し出されたそれを受け取ると、確かな重さを感じる。
ちらと覗いた彼の輪郭は、やはりまだ青年と呼ぶには早すぎる、少年のそれだった。
六年前、加野様にどこからともなく拾われてきたこの少年は、一年前まで菰野様の遊び相手を仕事として、加野様に養われていた。
それが、今では菰野様の側近として、大人達に交じって城に勤めている。
朝は、菰野様が目を覚ます直前まで、周辺の見回りや本日出勤の人員を下働きに至るまで確認したりと忙しく動き回り、夜も、菰野様が寝付かれてからやっと自分の事に取り掛かるこの少年が、一体いつこれだけの量を書くというのだろうか。
私も同じく、人より早く起き遅く寝る生活をしているわけだが、今年で二十歳の私でも朝の辛い日がある。
里でそのための訓練を受けてきても、なお……だ。
それなのに、この少年は、今年でやっと十四になろうかという歳だった。
「はい。必ず、譲原皇にお届けします」
受け取った書簡を丁寧に懐へ仕舞い、顔を上げて答える。
「ええ、お願いします。葵さん」
私の名前を口にし終えて、彼をいつも包んでいる張り詰めた空気が、ほんの少し和らいだように感じた。
大事な書簡を私に預けたことで、目の前の少年が安心した……。
これだけの事が、私にとってどれだけ重大なのか、きっとこの少年は気付いてはいないだろう。
そしてきっと、これから先も気付くことは無いだろうと、私は確信していた。
----------
久居様の部屋を後にして、西の丸から本丸へと向かう。この時間ならまだ譲原皇は自室で公務をなさっているはずだ。
本丸は昼夜を問わず周囲を警備兵が見回っているが、今夜は有難いことに、星ひとつ見えない暗い夜だった。
兵の薄い部分を抜けるだけで十分だろう。
気配を消すことや、闇に紛れることに関しては、相当自信があった。
武や術では里で人並みの成績だった私がそれにもかかわらず城勤めの推薦を受けることができたのは、沢山の人の中で諜報活動をする際に、この能力がもっとも重要であるからだ。
そんな私にも、ただ一度だけの失敗があった。
そう。ちょうど今夜のような、月も星もない真っ暗な夜……。
城に勤めるようになって半年。
同じ里からの先輩が四人勤めている中、血生臭い仕事はそちらを得意とする先輩に振られるため、私の仕事は主にちょっとした伝言や届け物などのお使いばかりだった。
おそらく、譲原皇のご配慮だったのだろう。
城にも仕事にも慣れてきて、確かに少し気配の消し方が甘かったのかもしれない。
それでも、真っ暗い夜に、明かりも無い場所で、たった十歳の少年に姿を見咎められるとは思いもしなかったのだ。
それも、三百尺(約百メートル)以上も離れた場所から……。
「そこで、何をしているのですか!」
遠くからでもよく通る子供の声に思わず振り返ると、全身に警戒を纏い、こちらを睨みつけているであろう少年がいた。
それが、久居様に初めて姿を見られた時だ。
それから、私の仕事は菰野様の身辺警護となった。
始めの三年間は、他の仕事もしつつ、手が空けば菰野様の様子を見に行って……という程度だったが、一年前からは基本的に四六時中、菰野様に張り付く事となった。
理由は分からないものの、菰野様が何者かにお命を狙われていることは明白で、現に久居様は度々その危機に瀕していた。
譲原皇も、とても仲の良かったお姉様である加野様を妖精の呪いにより急に失い、そうとう堪えていたご様子……。
この上、お姉様の忘れ形見である、可愛い甥までも失いたくないと思うのは当然の事で、菰野様付きの護衛も、一年前には城勤めの隠密のうち、一番腕の立つ先輩に立場を譲る事になりかけたのだが、久居様の希望により、今までどおりの私で任務に当たる事となった。
久居様の仰るには、菰野様のお命が狙われている事実を、菰野様自身には出来る限り知られないように事を運びたいのだそうで、連絡係ともなる隠密には、気配を消すのが得意で繊細な気遣いができる者を、という事だったらしい。
それを聞いた上でも、心のどこかでそれ以上の何かを期待してしまうのは、やはり、私が間違っているのだろう……。
ちなみに、十歳の少年に姿を見られた話が先輩達に伝わった時には、私は、それはもう叱られたりからかわれたりと忙しいものだと思っていたのだが、驚いたことに先輩達は口を揃えて「彼の前で見つからなかったことが無い」と言った。
報告の際、譲原皇よりお咎めが一切なかった事も、この前例が数あった故だったのだ。
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考え事をしながらも、譲原皇の自室、その天井裏に到着する。
譲原皇は、やはり、小さな明かりをひとつ机の上に置き、一人で書類と向き合っていた。
加野様がいらっしゃる頃は、いつもお二人はご一緒で、このような時にも机にはちょっとしたつまめるものと良い香りのお茶が添えられて、加野様は縫い物などをしつつ、譲原皇の仕事が終わるまでお傍にいらっしゃった。
時々、思い出したように今日の菰野様のお話などをされながら過ごすお二人の間には、残務処理中であったとしても、いつも温かい時間が流れていた。
声ひとつ無い部屋にそっと降り立つと、譲原様を驚かせてしまうことの無いよう慎重に声をかけ、書簡を手渡した。
ちょっとした使いにも、律儀に労いの言葉をかける譲原様のお声が、どことなく疲れている。
お早めにお休み下さいなどと言うわけにもいかず、せめて素早く立ち去ることにする。
久居様は、もうお休みになっただろうか。
事後報告をするようにとは言われていなかったが、書簡を無事に届けたことを告げれば、あの少年はもっと安心するかも知れない。
そう思ってしまったが最後、居ても立ってもいられなくなり、結局また西の丸まで引き返してしまった。
そっと天井裏から久居様の様子を窺ってみる。
いつもと変わらない緊張を纏って、彼は布団の中にいた。
身じろぎも無いその姿、おそらく眠ってしまっているのだろう。
残念ながら、私はこの一年ほど、久居様が完全に緊張を解いている姿を見たことがなかった。
いつの頃からか、寝ているときですら、起きているかどうかの判別が付かないほどの緊張感を、この少年は纏い続けるようになってしまっていた。
それが、私にはどうしようもなく悲しかった。
思わず片手をあげ、目頭を押さえると、ほんの少しだけ、音もたたない程度に天井裏が軋んだ。
「……葵さん?」
小さな声にハッとする。
起きていたのだろうか。それとも、私が起こしてしまったのだろうか……。
「どう、なさったのですか……?」
久居様が、少し眠そうな声で、それでも慎重に言葉をかけてくる。
「いえ、その、書簡をお届けしたことの報告にと思ったのですが、お休みでしたので、引き返そうかと……」
慌てて答えるも、なんだか言い訳がましくなってしまった。
「お休みのところを申し訳ありません……」
久居様がゆっくりと身体を起す気配がする。
「そうですか、ありがとうございます。お蔭様で安心して眠れそうです」
少し和らいだ空気にあてられて、胸がジンとなってしまう。
本当に……私には、本当にこんなことしか出来ないのだろうか。
何か他に、彼の力になれることはないのだろうか……。
ほんの少し、黙ってしまった私を見て、久居様が言葉を加える。
「気になさらないで下さい。私は、その、人より少し夜目が利くのです」
どうやら、私が彼を起こしてしまったことを気にしているのだと思われているようだ。
それにしても、真っ暗闇の中、三百尺以上離れたところから黒装束を認識できることのどこが「少し」なのだろうか。
「暗闇の中では、私の目は赤い色になるのだそうです。
実際、暗闇の中で物を見ているときは黒と赤で見えるのです……が……」
ふいに、久居様の声が力を無くす。
「久居様?」
「すみません、色というのは、葵さんには……その……」
申し訳なさそうに気配ごと小さくなってしまった少年の態度に、やっとその言葉の意味に気付く。
「大丈夫です、分かりますよ。私も、城勤めが決まるまでは皆さんと同じく見えていたのですから」
極力、優しく届くように声をかける。
この少年の心を、微塵も痛めたくなかった。
「そうなのですか?」
どうやら、彼は私が生まれつき盲目なのだと思っていたようだ。
「空の青、眩しい緑、茜色の夕日もまだはっきり覚えています。きっと、一生忘れません」
私の言葉に、彼の空気が弛む。
「最後に見たのは太陽です。真っ白い、すべてを包む光の色」
ハッとなった少年に、私も我に返る。
彼の弛みが嬉しくて、つい要らない事まで口にしてしまったようだ。
「そ、それにしても、暗闇で赤く見える目というのは珍しいお話ですね。はじめて聞きました」
全力で、話を元に戻す。少々強引ではあったが、この際だ。
「ええ、私も他に聞いた事はありませんし、譲原皇より口外を禁じられているので、相当珍しいのだと思います。
そういうわけですから、私が葵さんに気付いてしまうのは、私の体質であって、葵さんが責任を感じるところではないのですよ」
久居様が、それを受けて、しっかり出発地点まで話を戻してくる。
譲原皇に口止めされている……?
そのようなことを、私を励ます為だけに口にしていいのだろうか。
この、歳のわりに驚くほど慎重で冷静な久居様が……??
彼に信頼されているという事が、私には何にも変えがたいほどに嬉しかった。
きっと、私がこんな気持ちになっている事など、彼には思いもよらないのだろう。
けれど、それでいいと思う。
今はとにかく、度々危機に陥る彼を、失わないように生きる事で精一杯だった。
この少年が、出会った頃のように安心して、心弛めて過ごせる時が来るまで。
できればその先も。
この世が泰平であってくれれば……
私が、この城に居られれば……と心から願いつつ、その日は眠りについた。
……後になって疑問に思う事がひとつ。
少しでも光が差す場所では黒いままのその目が、真っ暗闇で赤くなるという事を、彼に教えたのは誰だったのだろうか……と。