五年前のことだ。

 北鎌倉の画家、降沢(ふるさわ) 在季(あき)は祖母から受け継いだ古民家を、作品制作のためのアトリエに改築したが、敷地が広大で部屋も沢山余っているため、せっかくならと一部をカフェとして提供することにした。

 そこで店長を任されることとなった占い師のトウコさん……こと、遠藤(えんどう) 浩介(こうすけ)さんがどうせなら『占い喫茶』にしてしまおうと提案し、このような状態となったそうだ。
 今までは、トウコ一人が占いをしていたが、給仕業務が疎かになったため、もう一人バイト占い師を増やそうと話をしていたところで、美聖と出会い……雇うに至ったと。
 そういう経緯らしい。

(何とも、羨ましい話だわ……)

 若くして職業画家でやっていける程の才能に恵まれ、莫大な財産を受け継ぎ、そしてこの広いアトリエ兼自宅に一人で暮らしている。

 降沢という男……。

 正直、美聖にとっては、妬ましいくらいだった。
 お金さえあれば……と、何度思ったことだろう。

 しかし、当の本人は、そのお金で遊ぶでもなく、身なりを整えることもなく、量販店で買ってきたような、柄のないシャツとチノパン……たまにジーパン姿で、存在感の欠片もない。
 いつも寝癖そのものの頭で、白いユリの絵の真下の客席に座り、特に注文するでもなく、トウコがホットか、冷たいアールグレイを機械的に提供し、それを無言で啜っている。
 本や雑誌、新聞を席に持ち込んではいるが、内容は読んでいないのだろう。
 たまに、くすりと笑うのは、客の会話、もしくは美聖のおぼつかない接客を淡々と観察しているからだ。
 彼は日がな一日中、そこに座っている。
 特に美聖に、文句をつけるでもないが、誉めることもない。
 監視されている訳でもなさそうだが、何とも落ち着かない。

(苦手だわ……)

 何を考えているのか分からない、美形で金持ちの画家なんて、美聖のようなタイプは絶対に関わることもない人種だ。
 普通は喜ぶべき状況の中、残念ながら、そんな人間に出会えたことを幸運に感じるより、得体の知れない薄気味悪さが勝ってしまうのが美聖の性格なのである。

(なんか、今日もいるし……)

 降沢は店の準備時間から、いつもの席で寛いでいる。
 美聖が採用されてから、一カ月の月日が経過していて、彼の生活リズムがだいぶ分かってきたが、人となりはさっぱり分からない。

(……まあ、でも、画家と名乗ってはいるけど、創作意欲は低いようね)

 彼が店にいない日を、今まで一度も目にしたことがない。
 こんなに暢気で務まるのだから、画家とはお気楽な商売なのだろう。

(いけない、私は仕事よ。仕事……)

 働かざる者、食うべからず……だ。
 美聖は手にしていた布巾で、テーブルを順に拭いていた。
 そのついでに、各テーブルの花瓶に、季節の花を活ける仕事も、美聖の大切な仕事となっていた。

「ふふふ。美聖ちゃん、だいぶ慣れてきたんじゃない?」
「……そう……でしょうか」

 トウコはいつも繊細な気配りをしてくれる。
 今日も逞しい上腕二頭筋をTシャツから覗かせながら、カウンター席の向こう側の厨房で、自慢の優しい味のするデザートを作っていた。
 サングラスを着用したままなのは、ちょっと怖いが、出会った頃の印象はそのままで、面倒見の良さはピカイチだった。とても、慈悲深く、温かい人だ。

「私……飲食関係務めるの初めてで、まだオーダーの時、手が震えていますよ」
「いいのよ。メインは占いなんだから、接客はおまけって感じで」
「おまけ……ですか」
「占いも、気楽にやってくれればいいのよ」
「あははは」

 愛想笑いで、流してみるものの……。

 ――気楽はまずいだろう。

 美聖は、頭を抱えてしまう。

(お金はちゃんともらっているんだし、給料分はしっかり頑張りたい……けど)

 だけど、どんなに頑張っても、美聖は駆け出しの占い師で、圧倒的に知識と経験が不足している感は否めない。
 毎日、痛感している。
 だからこそ、腑に落ちないのだ。

(何で、私が採用されたんだろう?)