きみがくれた日常を



 夏休みに入る前、学校から家に帰るのではなく、俺は桜の木を訪れるため逆方向を歩いていた。


 歩いている途中、さっき屋上で葵と話したことを思い出す。

 やっと決心がついたはずなのに、いざ口にしようとするとどうしても言葉が出てこなかった。

 葵。ごめんな。
 言おうとしたんだ、きみの事故のこと。

 でも、そんなこと言っても困らせるだけだ。
 それにそんな未来を知りたくないとも思うかもしれない。
 でも、同時に葵に未来のこと知ってて防いでもらう方法もあるんじゃないかとも思った。

 結局、俺はそのことについては話さなかった。
 俺ひとりではそんなこと決められなくて。
 でも、話しても、話さなくても俺がすることは変わらない。


『わたしになにか隠しごとしてない?』

 そう訊いてきた葵は俺が心配だ、と伝えているようにも聴こえた。
 葵は勘づいていた。俺がなにかを隠していることを。

 未来から来たなんて言って信じる人なんていない。
 だって、葵は桜の妖精の話ですら半信半疑という感じだった。

 俺はあのときどうすればよかったのか。
 答えなんてだれにもわからないし、正解もない。


 そんなことを考えていると桜の木に到着した。
 あたりまえだけど、桜は緑色で、それでも、綺麗だった。

 この桜の木が満開になるとこまた見たかったな。


 俺が桜の木の前に立つと、桜の妖精が姿を現す。


「俺、決めた」

 桜の妖精に向かって呟く。


「葵に生きてほしいのは俺の"わがまま"なんだ。
 だから他人を犠牲にするなんてできない。しちゃいけない」

 強く言い張る。
 これが俺が悩み抜いて出した答えだ。

 ずっと他人を犠牲にしようと思ってた。
 でも、気づいてしまった。
 葵が隣にいて、笑う度思ってしまったんだ。

 俺がだれかの笑顔を奪おうとしてること。

 そんなのしちゃいけない。


「じゃあ……!」

「俺が葵を(まも)る。
 例え俺の未来が閉ざされたとしても葵には生きててほしい。笑っててほしい」


「……葵ちゃんはきみが犠牲なったことを知ったらたぶん普通に生きていけないよ。
 ずっと後悔するよ」

 そうだろうな、そう思って無言で頷く。
 あの子はだれよりも優しいから俺が代わりに死ぬことなんて受け止めきれないだろう。

「だから、もうひとつだけお願いがある。
 その日は葵の誕生日なんだ。
 嫌な記憶なんてなくていい。誕生日だけは幸せな記憶だけでいいんだよ」

 誕生日に俺を喪うと思う。
 だったら、俺との記憶なんてなくてもいいんだよ。
 例え、葵が俺のことを忘れても俺が、俺だけは絶対葵のことを(おぼ)えているから。


「だから、葵が事故に遭ったこと、俺が庇ったことを忘れさせて。お願い」

「なんで、きみはそこまで!」

 妖精は、目を開いて驚いている。

「俺は二度も葵に出逢えて、二度も恋ができた。
 それだけで充分幸せだ」

 これ以上の幸せを求めるなんて贅沢だと思う。


 たぶん、他の人を犠牲にして葵と生きても俺は笑えない。ずっとその人のことを考えると思う。
 その人は当然、自分が葵の代わりだってことを知らない。

 俺が犠牲にしようとしてる人はだれかは分からない。
 けれど、その人はだれかの大切な人かもしれない。
 大切な人を喪う哀しみは俺がいちばんよく知ってるんだから。


「後悔……しない? 」

 恐る恐る俺に聞く。
 妖精の顔はまるで俺の未来のことを心配してくれているみたいだった。
 前とはなにか心境の変化でもあったのだろう。
 じゃないと、俺を心配する理由なんてどこにもない。

「するわけない」

 それだけは断言できる。

 葵を護ることができたら、後悔なんてするわけがない。
 葵を護れなかった後悔のほうがずっと大きくて、辛くて悲しいことだから。


 大切な人との時間をもう一度過ごしてみて、幸せなことに気づけた。