近頃、怖いものがたくさんある。なにが怖いのかわからない。どうして怖いのかわからない。けれど、いろんなものが、自分の近くにあるありとあらゆるものが、どうしようもなく怖い。

 右手の薬指がとても太い。固定サポーターを着けているので、ぼってりしている。他の指に比べてとても重い。雨の日に足を滑らせて転倒し、突き指した。幸い大事には至らず、一か月もせずにサポーターを外せる。

 人までの距離が、とても遠く感じる。それは当然、手を伸ばせば触れることもできるし、声をかければ話だってできる。けれど、そこまでの距離がとても遠い。手を伸ばすのに、声を出すのに、大きな勇気を要する。その奥で密かに眠る理由を、私は今日も知らずにいる。

 友達は少なくなかった。けれどみんな、私と違ってなにかしらの分野に秀でたものがあった。ある人は運動、ある人は学問、またある人は、芸術。だからみんな、違う高校を受験した。みんな、どう過ごしているのだろう。サッカー選手を目指していた彼女は、数学者を目指していた彼女は、声楽家を目指していた彼女は、どんな日常を送っているのだろう。

 私は五歳の頃から二年前まで、ピアノを習っていた。ピアニストを目指していた時期もあった。けれど、この人には敵わないと思う人に出会った。その人も女性だった。日本人で、誕生日も近くて、年齢はまるで変わらないようなものだった。両親も親戚もみんな会社務めで、身近に音楽家なんて一人もいないらしかった。私と、なにも違わなかった。

敢えて違うところを挙げるとしたら、彼女はとてもかわいい声をしていた。ふんわりしたワンピースが、一面に広がる花畑が、草花の冠が、両腕に抱くくまのぬいぐるみが似合うような、そんな声をしていた。けれどそれが、ピアノの音と関係があるとは思えなかった。才能――というものを信じる他なかった。

 前兆は、その頃からあったのかもしれない。彼女に対して負けを認めて、ピアノを諦めると決めて、なにも感じなかった。悔しい、悲しい、そんな未練がましいものを、なに一つ感じなかった。ああ、すごい人がいるんだと思った。才能の差というのは本当にあるんだなと思った。けれどそれ以上には、なにも感じなかった。彼女に対する嫉妬が、微塵もなかった。

ピアニストは本気で目指していた。この世界にある美しい音の連なりを、自らの手で描きたいと思った。それをたくさんの人に聴いてもらえるなんてどれほど幸せだろうと思っていた。それでも、辞める時、なにも感じなかった。プロでなくともピアノは弾けるという感覚が強かった。

それを理解した時、そんな自分がどうしようもなく怖かった。日々のすべてだったピアノの世界を離れると決めてもなにも感じない自分が、怖くて仕方なかった。自分がとんでもなく冷徹なような、人の心を失った人間以外のなにかのような気がしてならなかった。

 自分がなにを考えているのか、わからない。