人の数だけドラマがある、なんて感じの言葉は、どこで聞いただろう。映画か、ドラマか、はたまた小説か。なんなら自分で思いついたのかもしれない。

 映画やテレビ番組のジャンルに、ドキュメンタリーというものがある。ノンフィクション――実話の一部のようなもので、そういった映像には、一人の人間、あるいは一つの団体、組織の、深いドラマが記録されている。

 ああいった映像を観る度に思う。そりゃあ、まずは感動する。けれど、その次に思うのだ。――もし私のドキュメンタリーが作られたら、それはそれは退屈だべな、と。

 私にはドラマというドラマがない。生まれてこの方一度も、夢を追う楽しさも、それを諦めなければならない挫折も味わったことがないのだ。言い方によっては自慢になるかもしれない。「ええ? みんな大変だねえ。私にはわかんないや。その、挫折ってやつ? 無縁な人生だからさ」なんて言えば。もしもそんな言葉を吐く成功者がいれば、私のこめかみには青筋が浮くけれど、私自身にはそんな感情すら抱かない。なにせ私は、これまで成功も握ったことがないのだ。握ったことがあるのはおむすびくらいだ。

 さて、そんな私の一人芝居はどんな出来になるだろう。

 そう、こうなるのだ。

 「押村」と呼ぶ中年男性の低い声に呼ばれてはっとし、「解け」と黒板の数式を示され慌てふためく。

 ――睡魔との闘いである。

 私は立ち上がって、一つ、「押忍」と声を張った。

 「……で、それ教科書何ページすか」

 「十二」と先生の不機嫌な声が答える。

 私は教科書を開いて、黒板にある数式を探した。なるほど、これは――。

 「うす、わかりません」ともう一つ声を張る。直後、誰かが大げさに噴き出すのが聞こえて、「笑われてるぞ」隣の席の男子に囁かれた。

 私は右手を後頭部に当てる。「やっだあ、もうー。そーんな笑われっと照れっちゃーよ」と舌を出すと、「後でちょっとこい」と怒りの滲んだ声に言われて背筋が凍った。「座れ」と言う声には黙って従った。