静の――綸の父、夜久家の旦那は、まだ画家をやっていた。呼び鈴を鳴らすと、玄関の扉が開いた。

 「あれ、空君じゃないか?」と驚いた様子のおじさんへ、「綸いますか」と問うた。「ああ、上に」と答え、「でも」と言った彼を、「会わせてください」と遮って、廊下に上がった。長いそこを走って、階段を駆け上がる。静に会わなくてはならない。綸が帰ってくるのなら、少しだけ待ってもらわなくてはならない。静が眠りを受け入れるのなら、それを引き留めなくてはならない。

 少し気を抜けば、意識を逸らせば、膝からへたり込みそうだった。肺が大量の酸素で膨らんだように、重く痛い。視界には砂嵐のようなものもちらつく。

 「静」と、精一杯名前を呼んだ。返事はない。物音もしない。体調が悪いと言って休んでいるのだから当然だろう。それでも、呼ばずにはいられない。

 「静」と何度目かに呼んで、開けるなと言われた扉の先に、人の気配を感じた。胸倉を掴まれるのも、怒鳴られるのも殴られるのも覚悟して、扉を開いた。

 その先は、壁も床も灰色だった。絵具の匂いがする。会いたかった人は、光沢のある上下揃いのジャージを着て、座り込んでいた。綸なのか静なのか、はたまた二人以外の誰かなのか、わからない。

 「……静」と呼ぶと、「くるな」と声が叫んだ。あの教室での、昨日の少女だった。

 「お前まで穢れる」

 「穢れる?」

 袖から覗く手に、包帯が巻かれていることに気が付いた。

 「怪我……してるじゃないか」

 一歩踏み出すと、彼女は「くるな」と叫んだ。

 「大丈夫」と、おれは言った。おれが言えばそうなるのだと信じて。

 「おれは、君に会いにきたんだ」

 「だめだ」と彼女は叫ぶ。「お前まで……こっちにくれば、お前まで穢れる……」と、ひっくり返った声が震える。

 穢れる、とはどういう意味だ。おれの空っぽさを清らかとしているのだろうか。それなら、問題はない。おれはもう、空っぽじゃない。(そら)だ。名前を気に入っていないことを見抜いた押村さんが、そう呼んでくれた。彼女に隠し事はできない。そんな押村さんが、名前で呼んでくれた。

 なにより――。

 「大丈夫。君は穢れてない」