「……ウンシュルトの店主のこと、お忘れですか?」

 Unschld(ウンシュルト)。俺が初めて投資契約を結んだ小さな喫茶店だった。
 そこは俺が入社する2年前に起こった海外銀行のデフォルト(債務不履行)の影響で、当時付き合いのあった銀行から貸しはがしにあっていた。そのこともあり手元資金が枯渇し、店を畳むかどうかの瀬戸際まで来ていた。文字通り、藁にも縋る想いだったのだろう。
 店主は、ややどんぶり勘定なところがあり、資金繰りについては一考の余地はあった。
 しかし、地元の住民からは愛されており、リピーターも多いので当面の資金さえあれば何とか持ち直せる、と上司を必死に説得して何とか契約まで漕ぎつけたことは朧気ながら覚えている。

「昔から採算度外視のムチャな経営をする店主でしてね。ほとんどの銀行から見放されていたところで、彼は近江さんと出会ったんですよ」

「まぁ、ちょっと不愛想なオッちゃんだったな。打ち合わせの時に出してくれたボンゴレビアンコは旨かったけど」

「人生初の契約なのによく忘れられますね」

「新加にも同じようなことを言われたよ」

 飛鳥にジト目で指摘され、俺は思わず視線を逸らしまった。

「でも、命を救ったはさすがに飛躍し過ぎだろ」

 そう俺が話すと、飛鳥は虚ろな表情を浮かべながら語り始める。

「……もう15年になりますね。私の父が亡くなってから」

 飛鳥の話によると、彼女の父親は小さな呉服店を営んでいたらしい。
 元々、地元の顧客を中心にある程度シェアは確保していたようだが、駅前に百貨店が出来たことにより状況は一変する。
 客足は徐々に遠のき、真綿で首を絞められるように経営状態は悪化していった。それでも彼女の父は、設備面でのコストカットや仕入れ価格の見直しなど、資金管理を徹底することでギリギリのラインで踏みとどまる。
 またそれに加え、当時はまだ珍しかったオンラインショッピングにも進出し、攻勢の手も緩めなかった。
 だが、それが結果として悪手になってしまった。
 というのも、商品や店を意図的に貶めるような口コミが複数広がってしまったからだ。もちろん、口コミに書かれていた内容は事実無根であり、サイト管理者に削除依頼を出した。
 しかし、悪い噂というのは広がるのも早い。
 書き込みに気付いた時には既に手遅れで、一方的な風評被害を受ける形となってしまった。
 飛鳥は、想定よりも経営を立て直した彼女の父親を快く思わなかった百貨店の関係者によるものだと推測していたが、真意の程は分からない。
 結局それが止めとなり、彼女の父親は遂に店を畳む決意をする。

 そこからは転落の一途だった。
 多額の借金を抱えた彼女の父親は、毎日酒に溺れた。
 そして、閉店から半年が経ち、飛鳥が中学に入学した頃。
 彼女の父親は抗うつ剤を大量摂取し、自殺した。
 飛鳥と母親は相続放棄により借金からは逃れるが、父親名義だった自宅兼店舗は手放さざるを得なくなる。
 彼女たちは転居を余儀なくされ、飛鳥の高校卒業までの間、隣町で過ごすこととなる。
 それが今俺たちがいる、この田舎町だということだ。

「大学は運よく特待生に選ばれましてね。反面、高校時代はそのための勉強やらバイトやらであんまり寝た記憶がないですが。だから元和木さんのことは、とても他人事とは思えませんでしたよ」

 飛鳥は自嘲気味に話した。
 彼女は予め大宝や養老、元和木の身の上を知った上で、俺の方から彼女たちに踏み込むよう促したのだろう。
 俺はまんまとコイツの掌の上で踊らされたわけだ。

「私を女手一つで育ててくれた母も、大学三年の時に脳梗塞で亡くなりました。強がりな人でしてね。よくウンシュルトの店主とも喧嘩してましたよ。あの人は私たちの事情を知っていましたからね。いつも会計の時、まけようとしてくれるんですよ。その度に母が言うんです。『アタシをナメんじゃないよ!』って」

 ハハっと乾いた笑みを浮かべながらも、その声はかすかに震えていた。

「あの母のことです。家計が厳しいにも関わらず週に1度は店に連れて行ってくれたのも、私に惨めな想いをして欲しくなかったんでしょう。そして、それを察した店主も私たちに気を回していた。自分の店の経営状況は顧みずに。本当にどうしようもない人たちです」

「そうか……」

「そして、母が亡くなった時、私は決めました。母との思い出をくれたこの場所は絶対に守る、と。自分にとって大切な存在を守れる人間になる、と。」

「それが……、お前がキャピタリストを目指した理由か」

 飛鳥は微笑を浮かべながら、コクリと頷く。

「近江さん、私たちの前に現れたと思ったら、スグにお店を救っちゃうんですもん。何だか手柄を横取りされたような気分でしたよ」

「……そりゃ悪いことをしたな」

「でも、嬉しかった。これで父のような悲劇を繰り返さなくて済む。そう思ったら、父も母も少しだけ救われたような気がしたんです」

 金は人を殺す。
 それを身を持って体験している彼女だからこそ、〝救われた〟という言葉に説得力を感じた。
 と言っても、所詮は金儲けの延長線上に生まれた偶然の産物だ。
 彼女や店主に対して『助けてやった』など、やはり筋違いというものだろう。

「近江さん。今さら、と思うかもしれませんが言わせて下さい。あの時はウンシュルトを救っていただき、ありがとうございます」

「本当に今さらだな……」

「それでも言えて良かった。これで本流の彼女も報われるでしょう」

 これが俺と彼女が辿り着けなかった真実か。
 そしてあの時、飛鳥自身が望んだ俺との関係の修復も本当の意味で達成された。
 随分時間がかかっちまったな。いや、むしろ手遅れか。
 結局、俺には人を救えるだけの力なんてない。

「でも……、やはりあなたが会社の不祥事を隠していたことは許せない。どうして私たちに一言相談してくれなかったんですか?」

 彼女の表情は再び強張った。

「お前は……、信用されていなかったことが気に入らないのか?」

 最低な返しだとは思う。
 飛鳥がそんな邪推をしていないことくらい分かっている。
 だが、俺なりに葛藤はあったんだ。

「意地の悪い言い方ですね。私が言いたいのはそうではなくて……」

「他に何がある? お前らに相談したら何か変わったのか? 会社はもう取返しのつかないところまで来ていたんだ」

「分かってますよ。それでも失望してしまった。近江さんに、ではありません。近江さん一人に全てを背負わせてしまった自分自身にです」

「お得意の感情論だな。結局、ただの自己満だ」

「えぇ、そうです。自己満足です。何度も言ったでしょ。人はエゴの塊だって。私もあなたも」

「……勝手に罪悪感に浸って、挙句命まで投げ出す。それも自己満か?」

「はい」

「結果、残された人間が罪悪感に苛まれたとしても。それも自己満の範疇か?」

「はい」

「……下らねぇ。結局誰も救われねぇじゃねぇか」

「救われません。だから、ずっと背負っていくんです」

 背負っていく、という飛鳥の言葉に胸が突き動かされる。
 俺が背負わせたのか。彼女が自ら背負ったのか。
 彼女にとってみれば、そんな問題は些細なものなのだろう。
 彼女は選んだ。
 そして、今も選ぼうとしている。
 自分自身を選ばない道を。