久慈方さんの手引きにより、俺たちは元居た世界線に帰ってきた。
俺はこの景色を朧気に覚えている。
会社員時代、俺が初めて投資契約を結んだ喫茶店のある田舎町だ。
この辺り一帯は首都圏にありながら自然も多く、都心で働く人々のベッドタウンとしての役割を果たしている。
俺自身、この町に特段思い入れがあるわけではなかったが、『新入社員なんだから、あまり深いことを考えずに我武者羅にやれ』という上司の言葉のまま、片っ端からリサーチして、たまたま辿り着いたというだけだ。
そんなこの町が、俺にとって因縁となる場所になるとは、あの頃は露ほども思わなかった。
日も傾いてきた。
太陽は前方の奥から連なる山脈の頂上と重なり、これから夕刻に向かう。
時が進むにつれ過ってくる不安感と戦いながら、俺は目の前の踏切の端に無機質な表情で佇む女と向き合う覚悟を決める。
「よう、何か久しぶりな感じだな」
「近江さん……」
振り向いた彼女の鋭い視線が、俺を射抜いてきた。
その視線の意味するものは知るところではないが、言い知れぬ後ろめたさのようなものに押しつぶされそうになる。
「……どうされました? とうとう女子高生に手を出されましたか?」
元和木のことか?
そう言えば、コイツは知らないのか。
いや、知った上で惚けているだけかもしれないが。
俺はこの期に及んで軽口に終始する彼女を無視し、話を進めることにした。
「元和木については心配するな。アッチの〝俺〟が上手くやってると思うぞ」
「そうですか。それは良かった……」
そう言うと、彼女の表情は少し柔らかくなった。
「……まぁ、アレだ。今は軽い取り調べに来たってところだな」
「取り調べ? あなたが目指しているのは弁護士では?」
飽くまでもシラを切り通すつもりか、この女は。
「まぁ聞け。後は、そうだな……。まだちゃんと誕生日を祝ってねぇからな」
「……ではもう既に全てご存じということですね」
彼女は何かを諦めたかのように言う。
「あぁ。すっかり思い出したよ。何だよ、あのキャラ。寒い真似しやがって」
「万が一、近江さんが私について思い出してしまえば、スムーズにコトが進みませんからね……」
「その癖、露骨な誕生日アピールはするんだな。やってることチグハグじゃねぇか」
「そのくらい、いいじゃないですか……」
彼女はそう言うと苦々しい表情を浮かべ、俯いた。
思えば彼女のこんな顔を見るのは、あの時以来だ。
「……で、何をプレゼントしてくれるんですか。鉛玉ですか?」
コイツはどこまで計算しているんだ?
「任侠映画かよ……。悪いがさっき知ったばっかだから、祝いの言葉しかやれねぇな」
やはり俺は、結論へ辿り着くことを無意識に拒否している。
だから、取り繕う言葉しか出て来ない。
「アレだけイロイロとお世話してあげたのに。そんなんだから童貞なんですよ」
「まだ言うか……」
このままでは埒が明かない。
いつになったら俺は飛鳥と話すことが出来るのだろう。
俺たちのやり取りに痺れを切らしたのか、久慈方さんが口を挟んでくる。
「あの……、浄御原さん! 私、あなたに謝らなければいけないことがあります!」
「理事長が、私に? 心当たりがありませんが……」
「浄御原さん、ずっと一人で抱え込んでいたんじゃないですか? 聞けば、新加さんも知らなかったって言うじゃないですか」
「理事長、何か勘違いしていませんか?」
「へっ!?」
「私は望んで今こうしているんです……」
彼女は遠くを眺めながら力なく答える。
俺たちの間にしばしの沈黙が訪れた。
警報機の無機質な機械音だけが淡々と鳴り響く。
嫌な音だ。
遮断機が下りるまでに、電車が通過するまでに、停車している車が動き出すまでに何か答えを出さなければならない。
そんな錯覚に陥ってしまう。
「なぁ、飛鳥」
急かされるように俺は言葉を発する。
俺の呼びかけに、彼女は一瞬ピクっと動揺したような素振りを見せる。
「何でしょうか? 近江さん」
しかし、次の瞬間には気を立て直し、いつもの冷静な口調で応じた。
「そろそろ答え合わせをしよう」
「いいですよ。何から聞きたいですか?」
「そうだな。んじゃ、まずは散々世界線を連れまわした挙句、事あるごとに性犯罪者呼ばわりしてきた理由を教えてもらおうか? 手引きが苦手とかいうのも嘘なんだろ?」
すると飛鳥はフゥ―と深い息をつき、冷めた視線をこちらに向け話す。
「近江さん。〝もしも〟なんて世界、ない方がいいと思いませんか?」
それは平行世界そのものを否定しているのか。
正直、飛鳥の言うことに同調する部分はある。
取って代われるわけでもない〝可能性〟を見せられて、一体何になる?
むしろ、自分自身の過ちをまざまざと実感し、より惨めになるだけだ。
欺瞞だろうと、今が正しいと思って生きた方がいくらか生産的ではある。
ただ、まぁ。
それは本流だから言える勝手な言い分かもしれない。
そもそも、メジャーだのマイナーだの意識して生きているのは、機構と関わりのある極一部の人間だ。
人生に確固たる確信などない。当たり前のことだ。
時には人生そのものに懐疑的になりながら、手探りに泥臭く……。
そこには本流もクソもない。
「まぁ、お前の言うことは理解できなくもない。ただな。お前がそれを言うのは筋違いだろ」
「……確かにその通りですね。所詮、私は傍流。本流の飛鳥 令那のおこぼれに与っておきながら、言えることではありませんね」
「いや、そこまでは言ってねぇよ」
「しかし事実です。すみません、話が逸れました。あなたを連れまわした理由でしたね?」
「あぁ」
「多額の慰謝料を支払うため、〝近江さん〟に汚名を着せた大宝さん。私怨を晴らすため、民香ちゃんを虐待した施設職員。未成年と知りながら元和木さんと関係を持った天名さん。彼らの訴えや話を聞いて、近江さんはどう思いましたか?」
どう、と言われてもな。
胸糞が悪い。これが正解か?
だが、俺に言わせりゃそいつらはまだマシだ。
なぜなら、きっちり悪者だからだ。
優しい言葉で大宝の心を動かし、結果的に彼女が不利になる行動を取らせてしまった店長。
窮地の家族にいち早く見切りをつけ、彼らを捨てた養老の母親。
世間体を気にするあまり相続放棄を許さなかった元和木の婆さん。
彼らの方が数倍質が悪い。
まぁだからと言って、俺にそいつらを咎める資格はないのだろう。
所詮は部外者。
当事者のバックグラウンドも知らずに勝手な推測で、物事を判断するのは無粋というものだ。
何でも経験則で語るのはどうかと思うが、前の会社のこともあるしな。
さすがに俺もそれくらいは学んでいる。
「まぁ……、そうだな。一般的な感覚から言えば勝手な奴らだと思ったよ」
「一般的、ですか」
「あぁ。何も知らん人間10人いたら、10人がそいつらが悪いって答えるだろうよ」
「それでもあなたは彼らを罰することをしなかった」
「罰する理由がないからな」
「大宝さんは〝近江さん〟に直接危害を加えましたよ?」
そんなことは分かり切っている。
大宝にどんな事情があろうと、泣き寝入りする理由にはならない。
更に言えば、大宝が嘘をついている可能性だってある。
それでも俺は彼女を許してしまった。理由は分からない。
ただ、同情だとかそんなものではなかったとは思う。
「……一応弁護士志望だからな。被疑者の答弁も聞いて判断するのが筋だろ」
俺はその場を取り繕うため、取って付けたような見当違いも甚だしい理由を述べた。
飛鳥は黙ったままだ。
しかし、何かを見透かしているのか。飛鳥の淡泊な視線は俺を捉えたまま離さない。
そして、数秒間を置き言葉を紡ぎ出した。
「私は知っていましたよ。本来、近江さんは俯瞰的に物事を見ることが出来る人だと」
「まるで今は出来ていないような言い方だな」
「俯瞰的でいることが常に正しいとは限りませんよ? 自分というフィルターを通している以上、そこには必ず主観が介在する余地もありますから」
「知ってるわ、そんなこと……」
「その視点こそが近江さんの原点。あなたが弁護士を目指す理由もそこにあるのでは?」
俺の原点に何があるというのか。
いや。言われてみれば心当たりがないわけでもない。
「……昔な、どこだったか場所は忘れたが女子大生の監禁殺人事件があってな」
「はい」
話は逸れたが、それでも飛鳥は静かに頷いてくれた。
「それで犯人はすぐに捕まって、割と早い段階で死刑が確定したんだよ。そうなりゃ当然ニュースでも大々的に取り上げられるわな。それで親父やお袋が言うんだよ。『あんな奴は死刑になって当然だ』って」
「一般的にはそう思う方が多いでしょうね」
「まぁ、その流れで俺にも意見を求められたんだよ。だから俺は正直に答えた。『別に何とも思わない』ってな」
「そしたら……、ご両親は何と?」
「『お前は本当に人間か? そんな人でなしに育てた覚えはない』だと」
「……そうですか」
「別に犯人を庇いたいわけじゃなかった。遺族が犯人を憎むのは当然だし、死刑にしてやりたいと思うのは自然な感情だ。ただ、そこで第三者が同調してどうなる? アンタたちは家族を突然奪われた痛みを理解できるのか? 勝手に分かった気になって、犯人を罰しろだの殺せだの煽る姿を見て、単純に気持ち悪いって思っちまったんだよ」
あの時に感じた違和感を、こうして言葉で誰かに伝えたのは初めてだ。
今思えば、その場だけでも話を合わせていれば上手くやり過ごすことが出来たのかもしれない。
もちろん、親父やお袋が何か意図して言ったわけではないことくらい、子供ながらも理解はしていた。
ただ、どうしてだか口が滑ってしまった。
その後、特段親子関係が拗れるようなことはなかったが、その一件は俺の中でしこりとして残り、いつまでも消えなかった。
「近江さんが言わんとすることは分かりますよ。要するに近江さんの目には、ご両親が他人の不幸に乗じる火事場泥棒のように映ってしまった、ということですね?」
「極端な言い様だが、概ね当たってるな」
「でもあの時は衝動的に動いた。自分も他人のことを言えたものではない。そうおっしゃりたいのですね?」
「分かったような口を聞くな……」
「そして大宝さんや民香ちゃん、元和木さんを取り巻く環境に自分を重ねた。だから黙認した。根本的な問題からは一先ず目を背け、妥協点を探った。いつか自分も許されるために」
「うるせぇ……」
「誰よりもフェアでありたいと願いながら、ここぞという時には感情で動く。そんな自分に心底失望してしまう」
「そろそろ黙れ……」
「これじゃ前社長や経理部長を咎める資格がない。自分のあの行動で何人もの人生を」
「やめろっ!」
「…………」
「あぁ、そうだよ! その通りだよっ! 誰かが定義した善悪を盾にとって好き勝手言う奴が、俺は大嫌いだった。でも、結局は俺も同じだった。自己都合で善悪が変わるエゴイストでしかなかった……」
「それの何が悪いんですか?」
「っ!?」
飛鳥の一言に、俺は一瞬たじろいだ。
「近江さんは私の二の舞になることを恐れていたのかもしれません。ですが、そもそも大方の人間はポジショントークしかしていませんよ。先ほども申しましたが、自分と言うフィルターを通している以上、エゴは必ず存在するんですから」
「そんなの……、お前に言われなくても分かってる」
「いいえ。頭では分かっていても、心では受け入れきれていない。だから、未だに自分を責めようとする。一方では許されることを望みながら」
もはや何も言えまい。
俺はこれまでずっと〝反省しているアピール〟を続けていた。
皮肉なことにそれは養老のいた世界線で〝俺〟に浴びせた言葉そのものだ。
彼女に適格に指摘され決まりが悪くなった俺は、ただでさえ不愛想な顔を一層しかめるしかなかった。
「……ごめんなさい。私が原因にも関わらず、蒸し返すような真似をして」
俺の表情を読み取った飛鳥が謝ってくる。
「でも、近江さんには前に進んで欲しかった。私のために人生を棒に振って欲しくはなかった。だから、あなたには他の〝可能性〟を知って、原点に立ち返って欲しかった。その上で改めて考えて欲しかった。フェアに判断した先にも必ず不平等は存在することを」
全ては俺の一人相撲だったのだろう。
誰かのエゴを受け入れれば、フェアに善悪を判断できるようになれば、次の飛鳥を生み出さなくて済む。
心のどこかでそう思い、無意識的に辿り着いたのが弁護士という道だった。
迷走もいいところだ。
会社を辞め、何かを始めなければならないという強迫観念に駆られながら必死に絞り出したと言えば言い訳になるが、もっとマシな結論を導けなかったのか。
飛躍に飛躍を重ね、もはや本来の目的を見失いつつある。
そりゃ勉強にも身が入らないわけだ。
「……そうか。お前の想いは分かった。だがな。それとお前が機構へ起こした行動とどう繋がるんだ?」
「そうですね……。では近江さん、もう一度伺います。〝もしも〟なんて世界、ない方がいいと思いませんか?」
「またそれか。ならお前は何故新加に協力した? アイツの……、本流の飛鳥 令那の人生を背負ってまでこの道を選んだ?」
「近江さんには分かりませんよ……。自分が救った命でさえ、平気で忘れてしまえるあなたには、私の気持ちなんて」
脳天を貫かれる感覚だった。
俺が誰の命を救ったと言うんだ?
俺はこの景色を朧気に覚えている。
会社員時代、俺が初めて投資契約を結んだ喫茶店のある田舎町だ。
この辺り一帯は首都圏にありながら自然も多く、都心で働く人々のベッドタウンとしての役割を果たしている。
俺自身、この町に特段思い入れがあるわけではなかったが、『新入社員なんだから、あまり深いことを考えずに我武者羅にやれ』という上司の言葉のまま、片っ端からリサーチして、たまたま辿り着いたというだけだ。
そんなこの町が、俺にとって因縁となる場所になるとは、あの頃は露ほども思わなかった。
日も傾いてきた。
太陽は前方の奥から連なる山脈の頂上と重なり、これから夕刻に向かう。
時が進むにつれ過ってくる不安感と戦いながら、俺は目の前の踏切の端に無機質な表情で佇む女と向き合う覚悟を決める。
「よう、何か久しぶりな感じだな」
「近江さん……」
振り向いた彼女の鋭い視線が、俺を射抜いてきた。
その視線の意味するものは知るところではないが、言い知れぬ後ろめたさのようなものに押しつぶされそうになる。
「……どうされました? とうとう女子高生に手を出されましたか?」
元和木のことか?
そう言えば、コイツは知らないのか。
いや、知った上で惚けているだけかもしれないが。
俺はこの期に及んで軽口に終始する彼女を無視し、話を進めることにした。
「元和木については心配するな。アッチの〝俺〟が上手くやってると思うぞ」
「そうですか。それは良かった……」
そう言うと、彼女の表情は少し柔らかくなった。
「……まぁ、アレだ。今は軽い取り調べに来たってところだな」
「取り調べ? あなたが目指しているのは弁護士では?」
飽くまでもシラを切り通すつもりか、この女は。
「まぁ聞け。後は、そうだな……。まだちゃんと誕生日を祝ってねぇからな」
「……ではもう既に全てご存じということですね」
彼女は何かを諦めたかのように言う。
「あぁ。すっかり思い出したよ。何だよ、あのキャラ。寒い真似しやがって」
「万が一、近江さんが私について思い出してしまえば、スムーズにコトが進みませんからね……」
「その癖、露骨な誕生日アピールはするんだな。やってることチグハグじゃねぇか」
「そのくらい、いいじゃないですか……」
彼女はそう言うと苦々しい表情を浮かべ、俯いた。
思えば彼女のこんな顔を見るのは、あの時以来だ。
「……で、何をプレゼントしてくれるんですか。鉛玉ですか?」
コイツはどこまで計算しているんだ?
「任侠映画かよ……。悪いがさっき知ったばっかだから、祝いの言葉しかやれねぇな」
やはり俺は、結論へ辿り着くことを無意識に拒否している。
だから、取り繕う言葉しか出て来ない。
「アレだけイロイロとお世話してあげたのに。そんなんだから童貞なんですよ」
「まだ言うか……」
このままでは埒が明かない。
いつになったら俺は飛鳥と話すことが出来るのだろう。
俺たちのやり取りに痺れを切らしたのか、久慈方さんが口を挟んでくる。
「あの……、浄御原さん! 私、あなたに謝らなければいけないことがあります!」
「理事長が、私に? 心当たりがありませんが……」
「浄御原さん、ずっと一人で抱え込んでいたんじゃないですか? 聞けば、新加さんも知らなかったって言うじゃないですか」
「理事長、何か勘違いしていませんか?」
「へっ!?」
「私は望んで今こうしているんです……」
彼女は遠くを眺めながら力なく答える。
俺たちの間にしばしの沈黙が訪れた。
警報機の無機質な機械音だけが淡々と鳴り響く。
嫌な音だ。
遮断機が下りるまでに、電車が通過するまでに、停車している車が動き出すまでに何か答えを出さなければならない。
そんな錯覚に陥ってしまう。
「なぁ、飛鳥」
急かされるように俺は言葉を発する。
俺の呼びかけに、彼女は一瞬ピクっと動揺したような素振りを見せる。
「何でしょうか? 近江さん」
しかし、次の瞬間には気を立て直し、いつもの冷静な口調で応じた。
「そろそろ答え合わせをしよう」
「いいですよ。何から聞きたいですか?」
「そうだな。んじゃ、まずは散々世界線を連れまわした挙句、事あるごとに性犯罪者呼ばわりしてきた理由を教えてもらおうか? 手引きが苦手とかいうのも嘘なんだろ?」
すると飛鳥はフゥ―と深い息をつき、冷めた視線をこちらに向け話す。
「近江さん。〝もしも〟なんて世界、ない方がいいと思いませんか?」
それは平行世界そのものを否定しているのか。
正直、飛鳥の言うことに同調する部分はある。
取って代われるわけでもない〝可能性〟を見せられて、一体何になる?
むしろ、自分自身の過ちをまざまざと実感し、より惨めになるだけだ。
欺瞞だろうと、今が正しいと思って生きた方がいくらか生産的ではある。
ただ、まぁ。
それは本流だから言える勝手な言い分かもしれない。
そもそも、メジャーだのマイナーだの意識して生きているのは、機構と関わりのある極一部の人間だ。
人生に確固たる確信などない。当たり前のことだ。
時には人生そのものに懐疑的になりながら、手探りに泥臭く……。
そこには本流もクソもない。
「まぁ、お前の言うことは理解できなくもない。ただな。お前がそれを言うのは筋違いだろ」
「……確かにその通りですね。所詮、私は傍流。本流の飛鳥 令那のおこぼれに与っておきながら、言えることではありませんね」
「いや、そこまでは言ってねぇよ」
「しかし事実です。すみません、話が逸れました。あなたを連れまわした理由でしたね?」
「あぁ」
「多額の慰謝料を支払うため、〝近江さん〟に汚名を着せた大宝さん。私怨を晴らすため、民香ちゃんを虐待した施設職員。未成年と知りながら元和木さんと関係を持った天名さん。彼らの訴えや話を聞いて、近江さんはどう思いましたか?」
どう、と言われてもな。
胸糞が悪い。これが正解か?
だが、俺に言わせりゃそいつらはまだマシだ。
なぜなら、きっちり悪者だからだ。
優しい言葉で大宝の心を動かし、結果的に彼女が不利になる行動を取らせてしまった店長。
窮地の家族にいち早く見切りをつけ、彼らを捨てた養老の母親。
世間体を気にするあまり相続放棄を許さなかった元和木の婆さん。
彼らの方が数倍質が悪い。
まぁだからと言って、俺にそいつらを咎める資格はないのだろう。
所詮は部外者。
当事者のバックグラウンドも知らずに勝手な推測で、物事を判断するのは無粋というものだ。
何でも経験則で語るのはどうかと思うが、前の会社のこともあるしな。
さすがに俺もそれくらいは学んでいる。
「まぁ……、そうだな。一般的な感覚から言えば勝手な奴らだと思ったよ」
「一般的、ですか」
「あぁ。何も知らん人間10人いたら、10人がそいつらが悪いって答えるだろうよ」
「それでもあなたは彼らを罰することをしなかった」
「罰する理由がないからな」
「大宝さんは〝近江さん〟に直接危害を加えましたよ?」
そんなことは分かり切っている。
大宝にどんな事情があろうと、泣き寝入りする理由にはならない。
更に言えば、大宝が嘘をついている可能性だってある。
それでも俺は彼女を許してしまった。理由は分からない。
ただ、同情だとかそんなものではなかったとは思う。
「……一応弁護士志望だからな。被疑者の答弁も聞いて判断するのが筋だろ」
俺はその場を取り繕うため、取って付けたような見当違いも甚だしい理由を述べた。
飛鳥は黙ったままだ。
しかし、何かを見透かしているのか。飛鳥の淡泊な視線は俺を捉えたまま離さない。
そして、数秒間を置き言葉を紡ぎ出した。
「私は知っていましたよ。本来、近江さんは俯瞰的に物事を見ることが出来る人だと」
「まるで今は出来ていないような言い方だな」
「俯瞰的でいることが常に正しいとは限りませんよ? 自分というフィルターを通している以上、そこには必ず主観が介在する余地もありますから」
「知ってるわ、そんなこと……」
「その視点こそが近江さんの原点。あなたが弁護士を目指す理由もそこにあるのでは?」
俺の原点に何があるというのか。
いや。言われてみれば心当たりがないわけでもない。
「……昔な、どこだったか場所は忘れたが女子大生の監禁殺人事件があってな」
「はい」
話は逸れたが、それでも飛鳥は静かに頷いてくれた。
「それで犯人はすぐに捕まって、割と早い段階で死刑が確定したんだよ。そうなりゃ当然ニュースでも大々的に取り上げられるわな。それで親父やお袋が言うんだよ。『あんな奴は死刑になって当然だ』って」
「一般的にはそう思う方が多いでしょうね」
「まぁ、その流れで俺にも意見を求められたんだよ。だから俺は正直に答えた。『別に何とも思わない』ってな」
「そしたら……、ご両親は何と?」
「『お前は本当に人間か? そんな人でなしに育てた覚えはない』だと」
「……そうですか」
「別に犯人を庇いたいわけじゃなかった。遺族が犯人を憎むのは当然だし、死刑にしてやりたいと思うのは自然な感情だ。ただ、そこで第三者が同調してどうなる? アンタたちは家族を突然奪われた痛みを理解できるのか? 勝手に分かった気になって、犯人を罰しろだの殺せだの煽る姿を見て、単純に気持ち悪いって思っちまったんだよ」
あの時に感じた違和感を、こうして言葉で誰かに伝えたのは初めてだ。
今思えば、その場だけでも話を合わせていれば上手くやり過ごすことが出来たのかもしれない。
もちろん、親父やお袋が何か意図して言ったわけではないことくらい、子供ながらも理解はしていた。
ただ、どうしてだか口が滑ってしまった。
その後、特段親子関係が拗れるようなことはなかったが、その一件は俺の中でしこりとして残り、いつまでも消えなかった。
「近江さんが言わんとすることは分かりますよ。要するに近江さんの目には、ご両親が他人の不幸に乗じる火事場泥棒のように映ってしまった、ということですね?」
「極端な言い様だが、概ね当たってるな」
「でもあの時は衝動的に動いた。自分も他人のことを言えたものではない。そうおっしゃりたいのですね?」
「分かったような口を聞くな……」
「そして大宝さんや民香ちゃん、元和木さんを取り巻く環境に自分を重ねた。だから黙認した。根本的な問題からは一先ず目を背け、妥協点を探った。いつか自分も許されるために」
「うるせぇ……」
「誰よりもフェアでありたいと願いながら、ここぞという時には感情で動く。そんな自分に心底失望してしまう」
「そろそろ黙れ……」
「これじゃ前社長や経理部長を咎める資格がない。自分のあの行動で何人もの人生を」
「やめろっ!」
「…………」
「あぁ、そうだよ! その通りだよっ! 誰かが定義した善悪を盾にとって好き勝手言う奴が、俺は大嫌いだった。でも、結局は俺も同じだった。自己都合で善悪が変わるエゴイストでしかなかった……」
「それの何が悪いんですか?」
「っ!?」
飛鳥の一言に、俺は一瞬たじろいだ。
「近江さんは私の二の舞になることを恐れていたのかもしれません。ですが、そもそも大方の人間はポジショントークしかしていませんよ。先ほども申しましたが、自分と言うフィルターを通している以上、エゴは必ず存在するんですから」
「そんなの……、お前に言われなくても分かってる」
「いいえ。頭では分かっていても、心では受け入れきれていない。だから、未だに自分を責めようとする。一方では許されることを望みながら」
もはや何も言えまい。
俺はこれまでずっと〝反省しているアピール〟を続けていた。
皮肉なことにそれは養老のいた世界線で〝俺〟に浴びせた言葉そのものだ。
彼女に適格に指摘され決まりが悪くなった俺は、ただでさえ不愛想な顔を一層しかめるしかなかった。
「……ごめんなさい。私が原因にも関わらず、蒸し返すような真似をして」
俺の表情を読み取った飛鳥が謝ってくる。
「でも、近江さんには前に進んで欲しかった。私のために人生を棒に振って欲しくはなかった。だから、あなたには他の〝可能性〟を知って、原点に立ち返って欲しかった。その上で改めて考えて欲しかった。フェアに判断した先にも必ず不平等は存在することを」
全ては俺の一人相撲だったのだろう。
誰かのエゴを受け入れれば、フェアに善悪を判断できるようになれば、次の飛鳥を生み出さなくて済む。
心のどこかでそう思い、無意識的に辿り着いたのが弁護士という道だった。
迷走もいいところだ。
会社を辞め、何かを始めなければならないという強迫観念に駆られながら必死に絞り出したと言えば言い訳になるが、もっとマシな結論を導けなかったのか。
飛躍に飛躍を重ね、もはや本来の目的を見失いつつある。
そりゃ勉強にも身が入らないわけだ。
「……そうか。お前の想いは分かった。だがな。それとお前が機構へ起こした行動とどう繋がるんだ?」
「そうですね……。では近江さん、もう一度伺います。〝もしも〟なんて世界、ない方がいいと思いませんか?」
「またそれか。ならお前は何故新加に協力した? アイツの……、本流の飛鳥 令那の人生を背負ってまでこの道を選んだ?」
「近江さんには分かりませんよ……。自分が救った命でさえ、平気で忘れてしまえるあなたには、私の気持ちなんて」
脳天を貫かれる感覚だった。
俺が誰の命を救ったと言うんだ?