「近江さん、あの川を越えた先が本館の裏口です!」

 俺たちは追手から発見されるリスクの高い林道から離れ、道なき道を進むことにした。
 機構本部の敷地は意外に広く、辺り一帯は広葉樹林だけでなく本部の建物を囲い込むように川が張り巡らせられている。

「あとはあの橋を渡るだけか……」

 川向うには、案の定見張りがいた。
 アレが内通者か?
 いや、油断はできない。
 遠目で見る限り一人ではあるが、図体を見る限りまともにやり合っても分が悪いのは明らかだ。
 最悪、陣海さんから受け取ったアレ(・・)で脅すか……。それしかない。
 覚悟を決め、目の前に掛けられた石橋を渡り、ゆっくりと〝目標〟に近づく。
 
 ……いや、この人は。

「ご無沙汰しております、近江さん。お待ちしておりました」

 見覚えのあるゴツいフォルムに一瞬戸惑う。
 だが、目の前の男は紛れもなく、3日前共に夜の街の鬼ごっこを興じたパートナーだ。

「たかだか3日ぶりだけどな。内通者はアンタか。貞永さん」

 彼は黙って頷き、答える。

「理事を、救って下さい……」
「救うって……。アイツは加害者だろうが」
「そうですね……。順を追って説明いたします」

 それから彼はこれまでの経緯を話し出した。
 彼は元々内閣府に勤めていた官僚だった。
 ところが、1年前に関連組織である機構に出向を命じられ、当時既に理事まで出世していたアイツの側近を務めることになる。
 表向きの仕事は彼女のサポートだが、実のところは彼女の監視が彼の主な任務だった。
 その頃には既にアイツと政府は裏で繋がっており、今回の計画に向けて着々と準備を進めていたようだが、やはり念には念を入れてということだろう。
 俗な言い方をすれば、彼もまた政府のスパイだった。
 当然、彼女に自分の任を明かしたことはないそうだが、建前はともかく機構を煩わしく思っている組織から回されたとなれば、彼女でなくとも察しはつくだろう。

 そして、肝心なのはここからだ。
 貞永さんには、政府からもう一つ任務を言い渡されていた。
 それはメジャーの特典保持者からパラレルメイトを持つ者をリストアップし、世界線の歪みの原因を取り除くこと。
 平たく言うと、俺かアイツのどちらかを排除するということだ。
 しかし、貞永さんは名簿上は政府に属している。
 カタチとしては、アイツを利用するだけ利用して半ば騙し討ちをすることになるわけだ。
 そこに疑問を感じた貞永さんは、陣海さんを通じて内通の話を持ち掛けた、というのが事の推移らしい。
 正直政府がここまでなりふり構わずだとは思わなかった。
 まぁ政府の判断で機構を潰して、後々何か問題が起こると都合が悪いからな。
 分かっている範囲で不穏分子を取り除き、体裁を保ちたいというのは理解できるが。

「なるほどね。だったら俺を殺せばいいじゃねーか。なんでわざわざコッチに付く必要がある?」
「私は理事にもあなたにも死んで欲しいとは思っていません……」

 そう言うと、苦々しい表情を浮かべ俯いてしまった。
 俺の悪い癖だ。
 結局俺は悪意に敏感なのではなく、ただ悪意を恐れているだけなのかもしれない。
 彼は一旦久慈方さんの方へ向き直り、新たに話しを切り出した。

「理事長。この件、新加 執二(しんが しゅうじ)氏が関わっています」

「やはり、ですか。もしやとは思ったのですが……」

「誰だ、そいつ?」

「先ほど正面玄関越しに見かけた政府の高官です。そして、1年前に退任した先代の理事長でもあります」

「はぁ? 何でそんな奴がわざわざ機構を潰しにかかるんだよ」

「彼の思惑は分かりません。ただ、彼と浄御原さんが繋がっているというのは納得しました。元々、彼女は4年前に彼の紹介で入職してきたんですから」

「そうなのか?」

「はい。そもそも私が彼女の正体を知らないのも、彼が彼女に直接名簿を引き継いだからなんです。私も彼女を信頼していましたし、その点については特に何も言いませんでした。……いや、今さら私がこれを言ってしまうのは反則ですね」

 確かにその点については同情できない。
 組織の長である以上、多少なりとも全体を把握しておくべきだ。
 とは言え、久慈方さんも就任仕立てでバタバタしていただろうし、分業できるものはしておきたかったのだろう。
 アイツもその頃には理事に昇進していたみたいだし、ある程度マネジメントを任せても問題ないと思うのは自然だ。

「なるほど。じゃあその新加とかいう奴が、4年前にアイツの意識の引継ぎを行ったってことか?」
「その線が濃厚ですね。恐らく今回の件も、4年前から綿密に練られてきたものなのでしょう」

 差し詰め、4年越しの復讐といったところか。
 新加は機構に一体どんな因縁があるというのだ。

「ご無理を承知で申し上げます。彼女を……、浄御原理事を救って下さい!」

 1年も下で働けば情も芽生える、か。
 いや、恐らくそんな単純なものじゃない。
 だがいずれにせよ、機構の存続と、俺とアイツの生還を両立させるのは明らかに無理がある。
 そのことは久慈方さんも十分に理解しているはずだ。
 ただ現状結論は出せない。というより、結論に行き着くことがきっと恐いのだ。

「……随分とアイツに肩入れするんだな」
「仮にも上司ですからね。それに彼女は今頃……」

 すると、キーと甲高い扉が開く音が聞こえた。

「貞永。貴様、まさかとは思うが理事の尊厳を踏みにじるつもりか?」

 裏口の門に目を向けると、貞永さんとシルエットの良く似た男性が立っていた。
 俺はこの男も知っている。

「建武。やはり理事は生きるべきだ。生きてその役割を全うすべきだ!」

「理事はこの4年、ご自身の身の振り方を考え抜いた。その結果が今だ。例え1年しかお傍にいない貴様でもそれくらい分かるだろう」

「分かっていないのはお前だ。上官が明らかに間違った方向へ進もうとしているのであれば、それを正すのも下の者の役目だろ!」

「貞永。貴様に何が分かるというのだ……。理事は、4年もの間本来〝彼女〟が生きるべき人生を過ごしてきた。罪悪感を抱えながらな」

「だからこそ言っているんだ! 死ぬための4年間など……、例え理事でなくともあっていいはずがない。理事は許されるべきだ!」

「これ以上は平行線か。お前とは良い友でありたかったんだがな」

 そう言うと、建武さんは懐から小型小銃を取り出した。
 銃口は、かつてのパートナーに対して容赦なく向けられた。
 この場の全員が分かっている。
 彼らの諍いの原因は間違いなく俺だ。
 このまま何となく時間をやり過ごせば、政府を説得出来れば、機構の正当性さえ受け入れられれば、何も失わず何かが変わると思い込んでいる。
 だから具体的な妥協案も見出せないまま、理想に縋ってしまう。

 もう、うんざりだ。

 欺瞞から目を背け続けてきた組織の末路を俺は見てきた。
 手遅れとなった組織には、内輪で塗り替えられた正義感が蔓延しており、正論は届かない。
 この本質を理解し、きちんと向き合っていたのは恐らく陣海さんくらいだろう。
 いや……。あとはもう一人、か。
 俺は気づいた時には久慈方さんの手を取り、裏門の入り口に向かっていた。
 当然、建武さんも黙ってはいない。

「させるかっ!」

 すかさず銃口を俺の方向へ向けてくるが、貞永さんに取り押さえられる。

「急いで下さいっ!」

 貞永さんの言葉に無言で頷き、久慈方さんとともに本部の建物の中へ入っていった。