◇◇

 その日、東宮こと朱音は、己の振る舞いに、むず痒くなって、のた打ち回りたくなる衝動に耐えて、一日を過ごした。

(一体、私は何がしたかったんだ?)

 維月が倒れたと聞いて、今度は何の策略かと警戒心露わに彼女の住まいである『照陽舎』に出向いたくせに、そこで、彼女が部屋からいなくなったことを知り、焦った。

 ……もしや、辛い後宮生活を呪って、命を絶つつもりなのではないか?

 必死で彼女を捜索していたら、しかし、なんてことはなかった。
 維月は男装して、淑景舎に通じる渡殿の下で、暢気に月草を鑑賞していたのだ。
 人騒がせな……と、腹が立った。
 仮にも東宮妃が、顔を晒して恥じらいもなく、一人ふらふらと後宮内を散歩しているのだ。
 けれど、怒りと同時に、月草を前に、静かに微笑っている彼女に、心がざわついた。
 今にも折れそうな細い手足。男装していても、隠せない艶めいた面差し。
 小柄な維月の姿が頼りなく、寂しげに感じた。

(……同じなのかもしれない)

 彼女も、独りぼっちなのだ。
 その後、腹の探り合いと本音を入り混ぜながら、彼女と話していくうちに、想像していたことは、確信に変わった。
 維月にとって、呪詛とは真実であって、身近なものなのだ。
 彼女は本気で、朱音のために呪詛を解くつもりでいるらしい。
 ――それこそ、衆目すら意に介さない、決死の覚悟で……。

(私のことを見ているようで、見ていない)

 死に対する価値観。
 最初から、維月が眺めていた世界は兄の眠る幽世だった。

(あの時、私は……)

 彼女を連れ戻したくなった。
 後先なんて考えないくらい、発作的に……。
 身内しか知らない、愛称まで教えてしまうなんて、軽率すぎたことは自覚している。
 しかし、それを後悔しないどころか、邪魔が入ったことに不貞腐れている自分がいた。
 不気味なくらい、舞い上がっている心根が理解できない。
 はあっと、近年最長の深く重い溜息を吐く。
 ……そこに。

「ふふっ」

 襖障子の向こう側から、無駄に艶めいた女性の笑声が近づいてきた。
 この空き部屋の存在を知っているのは、近従以外にその人だけだ。
 人払いが徹底されていることが分かっているせいか、彼女の高笑いは長かった。

「やはり、悶えておりますね」

 すべて聞かれていたらしい。
 故意なのかと疑いたくなるくらい、彼女の登場は間が悪かった。

「最悪ですね。貴方に見られていたかと思うと、とんでもない弱みを握られたみたいで、生きた心地もしません」
「ええ、そうでしょうね。これから、楽しく弱みを利用させてもらうことにしますわ」
「貴方が言うと洒落になりませんよ。……瀬野」

 微かに鼻腔を擽る、落ち着いた香りと共に、衣擦れの音が響いた。
 瀬野は障子の向こう側に座ったようだった。

「弱みというくらいには、ご自覚があるようで、何よりです。東宮さま」
「まったく、執拗な方だな」

 最後の「東宮さま」は、わざと強調したのだ。
 瀬野は、朱音が維月に放った内通者である。
 朱音の乳母が彼女に歌を師事していて、その縁で瀬野に九曜家を探ってもらうことにした。
 入内の話が出た直後から、維月に接近して、九曜家から女房として、後宮に入るよう、推し進めてきたのだ。
 今のところ、正体は九曜の誰にも気づかれておらず、彼女も維月を気に入り、信頼を勝ち得ている様子だった。
 どんな者に対しても物怖じしない気の強さと、頭の賢さ。
 大変優秀な人物であることは、朱音自身よく知っているが、いまだに、彼女の激しい性格には慣れなかった。

「何度思い出しても、笑ってしまいそうですよ。あの時、私が呼ばなければ、貴方様は姫に何をなさっていたか……。ふふふっ。面白いです。あんなに毛嫌いしていたのに、すっかり熱を上げて。まあ、でも私には以前から、東宮さまが姫様に惹かれていたことは、分かっていましたけどね」

 悔しい。散々、貶されても、否定できないことが更に痛かった。

「瀬野。私は別に九曜の姫君を毛嫌いしていたわけではありませんよ。ただ、太政大臣の得体が知れないだけで……」
「確かに、太政大臣は怪しすぎますよね。姫様が嘘を吐くとは思えませんし、本当にご子息がいらしたのでしょう。私もまったく知りませんでしたよ。帝はご存知だったのでしょうか?」
「知らなかったら、問題でしょう」

 帝が知らないわけがない。
 知っていて、表沙汰にしないような力を働かせているのか。
 ……一体、何のために?

「大体、九曜家に長く勤めている女房たちは、皆、口が堅くて、つまらないのです。誰も何も教えてくれなくて。つい先日、私は姫様の口から、自分は仮初の妃なんだって、聞かされたんですから。姫様相手に知らない演技をするのは、本当に大変で」
「貴方の言う通り、九曜の女房たちも、変ですね。姫が抜け出したことすら、私が見舞いに行くまで、感知していませんでしたし。以前から、姫に対する態度に違和感がありました」

 燭台の灯を真っ直ぐ見つめながら、朱音は額に手をやった。

(唯一の味方である、九曜家の女房たちすら、彼女を軽んじている理由があるのだろうか?)

 平気で男装して、一人で空き部屋探索をしてしまうくらい彼女が身軽なのは、大臣の姫君としての教育がされていない証拠だ。
 現に、瀬野の報告によれば、彼女は学問に関しての知識は深いが、歌や香は苦手で、自分のところに届く文はすべて瀬野との共作らしい。
 いずれ高貴な家に嫁がせるつもりだったら、歌や香にこそ、力を入れて教育するものだ。
 九陽 実視は己の娘を、どのように育てるつもりだったのか?

「呪詛……か」

 それを解くための打開策として、朱音に妃を娶るよう進言してきた維月。
 しかし、己に呪詛が仕掛けられているという自覚すらない朱音は、彼女の言動に困惑するばかりだ。
 本当に、そこまで自分は誰かから恨まれているのか?

(維月は、しきりに淑景舎のことを気にしていたが……)

 ――桐壷の更衣。
 位の低い少納言家の娘であったため、帝の坐す清涼殿から遠い、淑景舎に住んでいた。
 朱音は、更衣とも面識はあった。彼女と交わした会話は少なかったが、幼い頃に母を亡くした自分にとっては、弟と母の関係は微笑ましく、温かに映ったものだ。
 彼女と呪詛に何か関係があるというのだろうか?

(今度、静養先まで、お見舞いに伺ってみるか……)

 ――と、ぼんやりと考えていたら、障子越しに含み笑いが聞こえて、うんざりした。

「……瀬野。貴方ねえ。いい加減にして下さいよ。私のことを散々嗤いますが、貴方だって、姫君の仮病に気づけなかったじゃないですか?」
「は?」
「違うのですか?」

 きょとんとしている朱音に対して、瀬野は、朱音より深く陰湿な溜息を落とした。

「東宮さま。お伝えした通りです。姫様は仮病なんかじゃありません。本当に、朝餉の後に、お倒れになったのです。それで、私は焦って、貴方様にお伝えしたのですよ。あの後、薬師やら、九曜の大臣に報せに走ったりして、大変だったんですから」
「しかし、姫は私が仮病だと指摘しても、言い返しませんでした」
「そんなこと! あの姫様が、東宮さまのお心を乱すことを告白するわけないじゃないですか。幸い薬師の見立てでは、疲れが出ただけだろうということでしたが、でも、絶対安静だったんです」
「……そんな」

 少し遅れて、感情の激流が朱音を襲っていた。

(どうして、陽の下で維月に会ったのに、彼女の体調について気づかなかったのだろう?)

 確かに、顔色は良くなかった。
 だが、高貴な姫君だから、青白いのは当然かと思っていたのだ。

(ああ、だから、彼女はあんなことを?)

 どうせ、自分は長くないから、あんな死生観を語っていたのか?
 ……もっと親身に、話を聞いてやるべきだった。

「私、彼女の御許に行きます」
「はっ、何を仰っているのです?」


 褥から立ち上がり、朱音は問答無用で彼女のもとに向かおうとした。が、すぐに瀬野から一喝されてしまった。

「暴挙ですよ! 止めて下さい。こんな夜更けに姫様の部屋に行っても、迷惑なだけです」
「しかし、私は昼間、仮病と決めつけて、あの人に無理をさせてしまったのです」
「本当にそれが気がかりなら、文でも送られたら良いではないですか」
「……瀬野」
「東宮さまの御心には、心配する気持ちと下心が同居しているようです」
「そんなことはありません。私は純粋に」
「いいえ。少々、頭を冷やされた方が宜しいのでは? 貴方様に振り回されて苦労するのは、その手の経験がない姫様の方です」

 手厳しい一言に、朱音は息を呑む。

「東宮さまが動くことで、様々な弊害が起こるのです。先日、一回姫のもとに通っただけで「東宮は九曜の姫君と仲睦まじくなった」と、後宮中で噂が飛び交ったのですよ。これで、また姫様のもとに通ったりしたら、「九曜の姫君、ご懐妊!」なんて噂が、まことしやかに流れてしまいます」
「別に構いませんよ。根拠のない噂に晒されるのは、慣れています」
「だから、私は貴方様のことではなく、姫様のこれからを案じているのです。あの方のこと、私は気に入っているんですからね」
「……そう……か」

 ――仮初の妃。
 いずれ終わる関係なのに、朱音が余計な気を回す方が残酷なのだ。

(だけど……)

 どうしてだろう。
 今にも走り出して、寄り添いたい衝動に駆られる。
 ほんの一瞬だったのに、彼女の諦念の混じった悲しげな笑顔を、朱音は忘れることができないのだ。