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「な、何をっ!?」
「だから、大声はよしなさいって」

 東宮は、柔らかく維月を諌めた。

(さすがだわ……) 

 激しく動いたのに、烏帽子に乱れがない。

「あんまり、ここで騒ぐと、私の従者も貴方の女房たちも、即刻駆けつけて来ますよ」
「し、しかし」

 ……(くつ)がないではないか。
 東宮が沓も履かずに外に出るなんて、前代未聞だ。

(私の沓を差し出すべきなのかしら?)

 困惑していたら、東宮は維月の目と鼻の先に近づきつつあった。

「あっ」

 恥じらいも忘れて、維月は東宮を凝視してしまった。
 切れ長の漆黒の瞳に、高い鼻梁。薄い唇。
 非の打ちどころもないくらい、整った顔立ちをされている。華奢ではあったが、背は高く堂々としていた。
 今日は、政務のついでのようで、先日の寛いだ直衣とは違い、凛とした衣冠姿だった。
 今まで、維月が会ったこともない、高貴で優美な御方……。

(やっぱり、この御方は主上になられるんだわ)

 澄良親王。
 御名前のとおりだ。
 そこに東宮がいるだけで、場の空気が澄んでいくようだった。

「ずいぶん、じろじろ見ますね? 私に何か憑いているのですか?」
「あっ、わっ、不躾に申し訳ありません!」

 さすがに不敬だ。
 維月が慌ただしく後退ると、東宮は目を丸くして、その姿を追っていた。

「……貴方は、感情豊かなのですね?」
「すいません。莫迦なのです」
「謝ることはありませんが」 

 ぽつりと言って、東宮は首を傾げた。

「まあ、確かに、常識から逸脱していますけどね。仮病まで装って、男装までして、こんな所に一人でいて、挙句、先日のことは忘れて欲しいと言ってくるなんて。作戦変更をやめて、自信満々に犯人を捕まえると息巻いているということは、貴方なりに、呪詛の犯人についての目星がついたということでしょう?」
「……あ」
「つまり、貴方と仲良くしていた方が、犯人を刺激するということですか? くだらないな」

 言下に一蹴した割には、東宮の黒い瞳は揺らいでいた。
 ――図星だ。
 どういうわけか、東宮と面会したことで、維月が張っていた網に敵が痕跡を残したのだ。
 それにしても、維月が良かれと思って口にしたことは、疑惑だけを東宮に抱かせてしまったらしい。本当に莫迦だった。

「それで、一体誰なんです? 私は昔から、帝や陰陽師たちに、呪詛を仕掛けられているなどと言われ続けてきましたが、そのような道具も目にしたことがありませんし。この通り、身体も頑健です。まったく見当もつきませんけど?」
「それは、まだ……。お話できるほど、確定とは言い難いんです。申し訳ないのですが」
「私には言えないと?」
「とんでもない! そういうわけじゃないのです。ただ私の判断では……」
「いい加減、きっちり話してみたら如何ですか? もし、貴方が私に、実家のことや貴方自身のことを信じて欲しいと思うのなら、少しでも私が納得するような事情説明が必要でしょう?」
「事情説明……ですか」

 維月の頭の中は、混乱の嵐が吹き荒れていた。

(困ったわ……)

 父からは、東宮には何も話すなと命じられている。
 維月にとって、東宮は雲の上の人だ。
 しかし、更に父の命令は、神仏からの啓示にも等しかった。
 ひとしきり考えてから、維月は差し当たりないことだけ話すことにした。

「実は……。私、夢を見て」
「夢?」
「ええ。それで、手掛かりを探して、男装して後宮内を歩いていたのです」
「呆れた人ですね。また帝の妃たちから、陰口を叩かれますよ」
「別にそれは、気にならないのですが」
「いや、気にした方が良いと思いますよ。貴方が後宮に長くいるつもりがあるのなら、もっと……」

 と、そこまで捲し立ててから、東宮ははっとなって、唐突に話題を元に戻した。

「……夢って、ここ淑景舎(しげいしゃ)を見たのですか?」

 戸惑いながらも、維月は頷いた。

「あっ、はい。ここだと思います。私、部屋からほとんど出たことなかったので、見つかるかどうか心配だったのですが、分かって良かったです」

 後宮の端にひっそりと佇む殿舎。
 蔀を開けたりして、手入れはされているが、今は、無人らしい。

(絶対、ここだわ)

 鬼の形相をした女性が、まさしく、月草の植わっている近くに何かを埋めていた。
 まさか、そんないわくつきの場所が、維月の部屋のすぐ隣だとは思ってもいなかったが、これも運命なのだろう。

 ――維月は、夢の中で呪術の痕跡を辿ることが出来る。

 もっとも、古い痕跡を辿ることは出来ないし、東宮の近くにいないと不安定だったり……と、扱い辛い能力には違いないのだが……。

「こちらにお住まいだった方って、どのような方なのでしょう?」
「まさか、夢如きで、ここにお住まいだった御方を疑っているのですか?」
「滅相もございません!」

 大げさなほど、首を横に振っている維月に、溜息を零した東宮は、そっぽを向いて答えた。

「どうせ、すぐに分かることだから、お答えしますが、こちらは私の腹違いの弟の母君、桐壺の更衣殿が昨年までお住まいだった場所です。弟の喪が明ける頃まで、そちらにおられましたよ。私も今でも仲良くしてもらっています。今は、山科で静養に努めておられるはずです」
「弟君の母上様……ですか。確か、東宮さまの弟君は、二年前……」
「ええ、亡くなりましたよ。その辺り、九曜家の方が詳しいでしょう?」

 東宮の目が、探るように細くなった。
 敵意に似たような、謎の緊迫感に、維月は身体を震わせる。

「申し訳ありません。残念ながら、私はそのことについて、父からほとんど知らされてないのです」
「ほとんど……ね」
「二の宮が身罷われたと、そのくらいしか。本当です」

 真摯に主張すると、今まで頑なだった東宮の気配がふわりと和らいだ。
 そして、檜扇で巧みに表情を隠しながら、独り言のように語り始めたのだった。

「貴方が父君から聞いた通り、私の弟は二年前の呪詛騒動の折に、急逝しました。弟は才気渙発で、これからの時代を担うに相応しい人でした。あんなに頑健な人だったのに、あっという間に逝ってしまって。私はいまだに、あの人が何者かに殺められたのではないかと疑っているのですよ」

 東宮の声が震えていることで、維月は改めて自分の言動を後悔した。
 やはり、父の指示なしに、気安く話してはならなかったのだ。
 謝らなければ……。
 維月は、更に一歩後ろに退いてから、深々と頭を下げた。

「失礼いたしました。私、東宮さまに、大変お辛いことを思い出させてしまいました」

 東宮にとって、弟君は大切な方だったのだ。
 二年前の件に遺恨があるのなら尚のこと、「呪詛」に対して、東宮は敏感になってしまうかもしれない。
 維月や九曜家に対して、殊更冷たい態度を取っていたのも、合点がいく。
 維月は、この尊い御方を悲しませたり、苦しませたりしたくはないのだ。

(ずっとお健やかに、御心を乱されず、過ごして欲しいだけなのに……)

 一体、何を話したら、気持ちが凪ぐのだろう?

「あの……東宮さま」
「何ですか?」
「畏れ多いことですが、私、少しだけ……。ほんの欠片だけかもしれませんが、東宮さまのお気持ちが分かるような気がするのです」
「貴方に……ですか?」
「実は、私にも兄がいて」
「はっ?」

 生温い微風が、二人の間を吹き抜けた。
 同時に、姫様……と、自分を探す声が聞こえてくる。
 維月のお抱えの女房だけなら、ここまで騒動にはならなかったが、東宮の突然の来訪によって、大事になってしまった。
 急がなければ……と、維月の口調は自然早くなった。

「私の兄は、体が弱かったため、出仕はしていませんでしたが、私と兄は、とても仲が良かったんです。兄は真面目で、とても優しい人で、私の自慢でした」
「……まさか、貴方の兄君も?」
「ええ」

 維月は小さく頷いた。

「私の兄も丁度二年前のその頃、あっという間に亡くなってしまったんです」
「それは、真実の話ですか?」
「その頃は、父も喪中で出仕していなかったはずですよ」
「でも、そんな……。私は知りませんでした。太政大臣は、いつも宮中にいるかいないか分からない人なので。でも、普通そのような大事、私も誰も知らないはずが……」

 もはや東宮は動揺を隠さず、ぼそぼそと呟くばかりだ。
 おそらく、頭の中で別のことを考えているのだろう。

(私のこの話を信用できるか、どうか……かしら?)

 それで良いのだ。
 維月は信じてもらいたくて、話しているわけではない。

「人の命って、儚いですよね。ある時、突然いなくなってしまったりして。けど、それを無念だと決めつけるのも、生きている者の思い上がりだと思うのです。きっと、あの人は幸せだったのだと、この世のお役目を果たせたのだと思ってあげないと、辛いじゃないですか? 私も……自分が死んだ時、そう思ってもらいたいから」
「貴方は、寂しくないのですか?」
「もちろん、少しは……。でも、私もいずれ兄の処に逝きますから。兄の死を悲しむのは、自分がこれからも生き続けることが前提だからだと思うのです。いずれ逝くことが分かっていれば、そんなに悲しくない。不思議ですよね」

 維月は微笑みながら、再び月草の方に視線を落とした。
 九曜家の屋敷の庭にも、月草は咲いていた。
 兄は小さい頃から身体が弱くて、外に出て見ることも叶わなかったのだ。
 だけど、自分は幸せだと、いつも笑っていた。

「貴方は……」

 ぽつりと呟いてから、東宮の手が、ゆっくりと維月に伸びてきた。

(あっ、また、私、失敗した?)

 小娘が知ったようなことを吐くなと、頬を叩かれるのなら、仕方ない。 
 目をつむって大人しくその時を待っていると、しかし、東宮の指先が維月の頬に触れるか否かのところで、瀬野の怒鳴り声が乱入してきた。

「姫様、一体何処にいらっしゃるのですか!?」
「大変、もう戻らないと……」

 よりにもよって、瀬野に見つかったら、どんなお小言を食らうことか……。
 しかし、動きだそうとした維月を庇うように、東宮の方が先に背を向けた。

「……朱音(あかね)
「えっ?」

 東宮は振り返ることなく、そのまま告げた。

「幼少の頃に亡くなった母が、私のことをそう名付けて呼んでおりました。私は女人みたいで嫌だとごねていましたが、男子が健全に育つために、女子の振りをして呪いをするのだと……。母は言って聞きませんでした。今はもう、私に対して、その呼び名を使う者は誰もいません」
「東宮さま?」
「それは敬称です。私のことは、朱音と呼んで下さい。たとえ限られた時間であっても、貴方とはまたお会いする機会があるかもしれませんから」
「そんな、私ごときが……」

 だが、維月の言葉を皆まで待たずに、東宮は再び軽やかに渡殿に上って、何食わぬ顔で簀子を歩き始めてしまった。

(……朱音……さま)

 脳内で反芻してみて、維月は生まれて初めて、胸が一杯になるような切ない感情を味わった。
 けれど、東宮の意図は、さっぱり読めなかった。