◆◆

 月草の女御……と、後宮では嫌味でそう呼ばれているらしいが、維月はむしろ、その呼び名を気に入っていた。
 月草で染めたものは、すぐに色が落ちてしまうから「儚い」という意味らしい。
 けれど、儚く地味に見えても、命のある限り健気に咲き誇ることができたら、月草だって本望ではないか。

「……あ、月草」

 あるはずないと思いながら、さりげなく探していたら、今は無人となっている淑景舎(しげいしゃ)の渡殿の下でひっそりと咲いているところを発見した。
 今日の維月は、幸い男装をしている。
 大胆にその場でしゃがみこんだ維月は、微風に揺れる、縹色の花弁をまじまじと見つめた。

「お前も頑張って、咲いているのね」

 ――お前の生きる意味は、一の宮を護ることだ。

 維月の脳内に響く父の声。
 子供の頃から、ずっとそう言われ続けてきた。
 その一の宮のすぐ傍で、お役目を果たすことが出来る。

(しかも、仮初とはいえ、夫婦)

 夫婦……なんて。
 神様が与えてくれた、ご褒美に違いない。

「貴方、一体、何をにやにやしているんですか?」
「うわっ!?」

 色気ごと吹っ飛んだ叫声を上げて、維月は勢いよく立ち上がった。   
 よく通る低い声は、更に皮肉を続けた。

「知りませんでしたよ。こんなに独り言が多い人だったとは」
「どっ、どうして?」

 思わず、維月は後ろにひっくり返りそうになってしまった。
 東宮だ。
 間違いない。
 二藍の色鮮やかな直衣姿で、口元に扇を当てている。
 まさか、日中の明るいうちから、この御方に会うなんて……。
 恥ずかしいが、ここに二人を隔てる御簾はない。
 隠れる場所がなかった。
 

「ちょ、ちょっと待って下さい」
「一体、何を待つんです? 手遅れですよ」
「分かっています。いますけど!」

 維月が取り乱して両手で顔を隠すと、逆に東宮は落ち着いた声でやんわり告げた。

「大丈夫。ここには私しかいません」
「そ、それは、その……良かったと申しますか、御見苦しいところをお見せしたと申しますか」
「ええ、そうですね。貴方も恥ずかしいことをしますよね。部屋を抜け出すなんて。しかも、男装までして」
「申し訳ありません」

 動きやすい格好をしたくて、勝手に実家から持参した水干姿に着替えて、髪を一つに結った。
 すべて自分一人でやったので、今、維月は究極に見苦しい格好になっているはずだ。

「今朝、貴方が倒れたと耳にしたので、一応、見舞いにと思って伺ったのですが、その必要はなかったようですね」
「ああっ、はい。そ、そうだと思います」

 とりあえず、適当に相槌を打ったものの、そもそも、東宮は仲良くしたくない妃のもとに、何故見舞いになど来たのだろう?
 問い質したいけれど、緊張で維月は凝り固まってしまっている。
 ――と、その時

「東宮さま、そちらにいらっしゃるのですか!?」

 従者たちの声が、賑やかな足音と共に、こちらに近づいてきた。

(……まずい)

 とっさにその場でしゃがんで、身を隠そうとした維月だったが……。

「退りなさい。女御は、ここにはいません。部屋に戻ったのかもしれません。私はもう少しここにいますから、お前たちは妃の女房たちに、もう一度尋ねてきなさい」

 有無をも言わさない迫力だった。

「承知いたしました」

 従者たちも、東宮の指示に疑念すら抱かずに、素直に、昭陽舎の方に戻って行ってしまった。

「今の……良いのですか? お付きの方々を皆、退けてしまわれて……」

 てっきり、従者の眼前に、突き出されるだろうと思っていた維月は、面食らってしまった。

「まったく、貴方は……。考えてもみなさいよ。私だって、いくらなんでも、高貴な姫君の顔を衆目に晒すような真似はしませんよ。今の貴方は東宮女御なんですから。私だって同様に恥をかくことになります」
「東宮女御? 私が……ですか?」
「寝ぼけているのですか?」

 不覚にも、感動してしまい、維月の眼は潤んでしまった。

(東宮さまから、そんなふうに呼んで頂くことが出来るなんて……)

 なんと、慈悲深い方なんだろう。
 維月は両手を合わせて、東宮を拝んだ。

「ありがとうございます。そのお言葉で、私は十分生きていけます。過分な御配慮まで賜りました。このご恩は、絶対に忘れません」
「大げさな」
「東宮さま?」

 初めて東宮の口元が緩んだような気がした。

(笑った?)

 先日までの東宮だったら、維月を邪険にそのまま部屋に帰したはずなのに、今は気を緩めて下さっているのか?

(そうだわ。今が好機よ)

 東宮の機嫌が変わらないうちに、謝罪をしておこう。

 ――新しい妃を娶って欲しい……などと。

 膠着状態に痺れを切らして、何か刺激になることをしてみようと、慣れない策を弄したものの、東宮には一瞬で却下されてしまった。
 よほど東宮は怒っていたのか、あの日は、そそくさと維月の部屋を出て行ってしまったのだ。

「その……東宮さま。先日は、大変失礼しました。他の妃を娶って頂きたいなんて……。私は出過ぎたことを、申しあげました。どうか、その件は、綺麗さっぱりお忘れ下さいませ」
「………はあ?」
「申し訳ありません、今、思い出しても嘆かわしく思います。私は焦っておりました。私が妃でいるより、新たなお妃様を冊立した方が呪術師を刺激できるかもしれないなんて。どうか、東宮さまは、何もせず、このままお待ちください。呪詛のことはきっと解決してみせますから」

 ――が。維月の誠意とは裏腹に、東宮はあからさまに眉を吊り上げていた。

「貴方ねえ」
「へっ?」

 東宮は恒例の溜息の後、こともあろうか、渡殿からひらりと下りて、維月の前に立ち塞がったのだった。