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 父が都の外れで、維月を拾ったのは、まだ肌寒い、朧月の夜だったと聞いていた。
 月夜に拾った縁を繋ぐ子供という意味で、「維月」と名付けたそうだ。
 独り空腹に喘いで死にかけていた維月の夢のような人生が、その日から始まった。
 最底辺の下賤な娘が、大臣の娘となって、東宮に入内するまでに至ったのだ。
 兄も維月と同じ境遇だったから、喜んで「お役目」を受け入れた。
 贅沢を味わうことが出来たのは、兄と維月にしかできない「お役目」があったからだ。

(どんなことがあっても、私は朱音さまをお護りする)

 たとえ、離縁という形になっても、維月が生きている限り、朱音を見守り続けることは出来るはずだ。
 まだ維月の身体は調子が戻らないが、呪詛の気配が消失したことは分かった。
 朱音は葛藤しているようだが、きっと帝になる。これからはやりすぎないよう、朱音を陰ながら護っていきたいと、屋敷に戻ってすぐ維月は父に頭を下げた。

(父様からは、叱られてしまったけど……)

 呪詛を、返せなかったから。
 仕方ない。
 朱音を、悲しませたくなかった。
 維月の犠牲で済むのなら、それで良いと思ってしまったのだ。
 ……だけど。
 良かれと思って受けたのに、倒れた維月を目にした朱音は、一層傷ついた顔をしていた。

「どうしてなんだろう?」

 朱音の気持ちが分からなくて、しかし、分かってしまうのが恐くて、涙が溢れて止まらないのだ。
 もう二度と、顔を合わせることもないのに……。

 ――と。

「維月!!」

 まるで、雷のように激しい足音だった。
 ……誰?
 と、誰何するより早く、今の今まで維月の頭の中にいた人物が、帳の中に飛び込んできた。

「どうして、貴方様が?」
「なぜ、私に無断で実家に戻るんです? 有り得ないでしょう!?」

 息を切らして駆け付けてきた朱音は、その場で勢いのまま座ると、躊躇なく維月の顔を覗き込んだ。

「顔色が悪い。こんなに激しく動いて、身体に障るじゃないですか」
「大丈夫ですよ。身体は回復しています。風邪をこじらせて、喉を切っただけですから。あともう少し安静にしたら」
「嘘だ」
「本当ですよ」

 むきになって笑ってみせたら、朱音が更に維月との間を詰めてきた。

「静養はしっかりしてください。でも、貴方は私の妃です。今後は帝の勝手に付き合う必要はありません。私の傍にいるのです」
「……そんな無茶な」
「無茶でも何でも、私は貴方を実家に返すつもりなんてないんです」

 肩を揺さぶられて、初めて維月は恥じらいを感じた。
 まさか朱音が訪ねてくるなんて思ってもいなかったから、寝間着姿に乱れた頭のままだった。
 目を合わせていられなくて、慌ててそっぽを向くと、頤を押さえられて強引に、朱音の方に向かされた。

「いいですか? 身体が良くなったら、後宮に戻ってきてください。絶対ですよ」
「無理です」
「どうして?」

 朱音の大きな手から逃れようともがきながら、維月は言い放った。

「私は仮初の妃です。そういう誓約で入内しました。第一、私は、朱音さまのお妃には相応しくありません」
「やめて下さい。私とて、自分が帝に相応しいなんて思ってもいません。今だって、無理だと言って、逃げ出したいくらいです。実際、そうしてやろうかとも思いました。でも、貴方がいなくなったと聞いて、いても立ってもいられなかった。……貴方が、私の傍にいてくれたら」
「なぜ、そんな……」

 信じてはいけない。
 この御方が仰っていることを、本気にすることすら憚れる。
 最初から、維月と朱音では釣り合うはずがないのだ。
 真実を告げたら、きっと去っていくだろう。

「朱音さま。私は九曜の実の娘ではありません。都の外れの貧民窟で死にかけていた卑しい身の上の者なんです。幼い頃、父様に救われて、娘として、姫君として養育されました。いざという時、貴方様をお護りするために。……だから」
「……護る? 私を?」

 漆黒の瞳を大きく見開いて、朱音が維月をひたと見つめている。
 維月は、この瞳に弱いのだ。

「どういう意味ですか?」
「私は……」

 言いかけてから逡巡していると、涼やかな香が辺りに広がった。

「あっ……」

 その香りを焚き染めている人物を、維月は一人しか知らない。

「父……様」
「随分、遅い時間にいらっしゃるのですね。一の宮さま」

 維月に呼ばれることを待っていたかのように姿を現した父は、朱音の前で深々と頭を下げたのだった。