◇◇

 維月は、疲労などではなかった。
 ――重症だった。
 幸い、大事には至らなかったが、瀬野から、維月の体調は回復していると報告を受けていただけに、朱音の衝撃は大きかった。
 何度手を洗っても、生温かい血の感覚が拭えない。
 まさか、自分が倦魅に使った呪物を維月のもとに持参してしまったのがいけなかったのだろうか?
 だけど、いい加減、彼女と事の真相を共有したかったのだ。

(会えない時間が、長過ぎたんだ)

 文を出しても、まったく応じてくれない維月の真意を知るために、朱音は本気を出して、呪詛のこと、九曜家のことを調べた。
 今まで、呪詛には懐疑的だったため、陰陽師とも関わらないようにしていたが、今回は積極的に声を掛けて回った。
 二年前のことは、陰陽師の中でも有名な事件だったらしく、情報は自然と集まってきた。
 ――そうして。朱音はようやく、自分が狙われていたのだという実感を得たのだ。
 曖昧だった世界が現実味を帯びてくると、忘れようと努めていた弟の不審死について、疑惑が蘇った。
 別に、九曜家や維月を責めようと思ったわけではない。
 自分は弟に恨まれていたのではないかと、怖くなって、維月に尋ねてしまったのだ。
 だけど、それがいけなかった。

(すべて、私が悪い)

 維月の心労を慮ることなく、更に追い詰めてしまった。
 血の気の失せた真白い顔が、忘れられない。
 
(今まで、私は何をしていたのだろう?)

 強引にでも、維月に会いに行けば良かった。

(少しは、彼女の心も軽くなったかもしれないのに……)

 今度こそ、維月から離れまいと、頑なに照陽舎に留まっていたら、しかし、帝から呼び出しがかかってしまった。

 ――検非違使と共に、山科に行くように。

 一方的な命令だった。
 呪詛は、まだ機能している。
 速やかに、桐壷の更衣を捕える必要がある……と。

 ――すべてを知りたいのなら、行って来い。

 日頃、何があっても動くなと命じられてばかりいるのに、今回は動けと身勝手なことを言う。
 ……朱音には、維月の傍にいる自由すらないのか?
 けれど、自分自身のことを、人任せにも出来ない。
 朱音はすぐに準備をして、検非違使と合流した。
 桐壷の更衣が滞在している静養先に、呪詛の仕掛けはなかったが、桐壺の更衣が毎日願掛けをしているという山間の寺のすぐ傍の庵から、先日、淑景舎の下から出てきたものと同じ呪詛の痕跡が出てきた。
 一朝一夕で導き出せない場所に埋まっていた呪物は、予てから、維月が夢で見ていた場所で、太政大臣から帝に伝言されていたらしい。
 帝は彼女に釘を差したにも関わらず、桐壷の更衣は白を切り、朱音を呪い続けたのだ。

「私のこと、貴方はずっと恨んでいたのですか?」

 面と向かって本人に問いかけたら、鬼の形相で胸倉を掴まれた。

(この人は、本当にあの桐壷の更衣殿なのだろうか?)

 痩せ細り、髪はぼさぼさで、目は血走っていた。
 朱音の知っていた桐壷の更衣の面影は、何処にもなかった。
 この人に寄せていた家族のような親しみは、朱音の一方的な想いだったらしい。
 桐壷の更衣は「狡い」と喚いていた。
 何の覚悟もないまま、生きている。
 朱音の地に足がついていない姿勢を、優秀な時雅親王の母である彼女には、許せなかったのだろう。

「弟も、私のことを恨んでいたのでしょうか?」

 激しい殺意を向けられて、失意のどん底にいながらも、朱音は訊かずにはいられなかった。
 二年前、弟が率先して呪詛をしていたのではないか?
 朱音の預かり知らないところで、呪術的な争いがあって、九曜の手で弟が葬られたのではないか……などと。
 しかし、更衣は泣きながら嗤うばかりで、何の答えも返してはくれなかった。
 すべてを知るどころか、朱音自身の不甲斐なさを、再確認しただけだった。

(こんな自分が帝になったところで、誰がついて来るのか?)

 遠くに逃げてしまいたい衝動にかられながらも、唯一、維月のことだけは気がかりだった。

(帰らなくては……)

 ともかく、内裏に戻ろうと、帰り支度を急いでいたところに、息も絶え絶えの文使いがやって来た。
 瀬野からの文だった。

 維月が帝からの指示で、実家に戻ることになった……と、速筆で書かれていた。

(やられたな)

 すぐに、朱音にも分かった。
 自分は、帝と九曜実視に嵌められたのだ。