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 日中も過ごしやすくなり、夜には寂しげな虫の声が響くようになった晩秋の黄昏時。
 維月は、例によって瀬野に添削してもらった文で、東宮、朱音を部屋に呼び出した。
 呪詛の件は、じきに解決する。
 維月は、お役御免になるだろう。
 瀬野からせっつかれたこともあったが、最後の日を迎える前に、一度朱音とお会いしなければ、さすがに不義理だと思ったのだ。

「東宮さまには、沢山文を頂いたのに、なかなかお会いできず、申し訳ありませんでした」

 維月が粛々と頭を下げると、御簾越しに、朱音の姿を捉えることが出来た。
 最初の頃の冷徹な気配が、嘘のように消えている。
 愛着を抱いてもらうようなことなんて、何一つしていないのに、朱音は懐かしそうに目を細めていた。

「そうですね。姫とお会いできない日々が続き、悶々としておりましたが、ひとまずお顔を見ることが出来て、安堵しました」
「えっ?」

 ――安堵? 悶々?
 不思議な単語も混ざっていたが、きっと朱音なりの気遣いだろう。……だが。

「姫、お忘れになりましたか? 私の呼び名、伝えたでしょう?」
「あっ……」
「私の名は、朱音です。私も貴方のことを、維月と呼ばせて頂きますから、それくらい甘えてください」
「しかし、東宮さまの御名前を呼ばせて頂くなど」
「嫌ですか?」
「と、とんでもない! 光栄です」
「じゃあ、呼んで下さい」
「はあ」

 なんだか上手く誘導されたような気がするが、維月はおそるおそる口を開き、か細い声で呼んだ。

「……あ、朱音様」
「別に様もいりませんけど、ありがとう。維月」
「いっ!?」

 ―と、躊躇なく呼び捨てだったので、維月の顔は真っ赤になった。

「可愛らしいな」
「なっ!?」

 一体、朱音はどうしてしまったのだろう?
 妄想にしたって、夢を見過ぎだ。
 しかし、朱音は、口元に笑みを浮かべている。幻聴ではないようだった。

「やはり、貴方は率直で分かりやすい人だな。九曜家や貴方が、弟を殺めたのだと疑っていた私が愚かでした」

 言いながら、朱音が前にずいっと身を乗り出してくる。
 維月に気を許したのか、問いかけに淀みはなかった。

「呪詛のこと、進捗があったのですね?」
「なぜ?」
「今まで何度文をしたためても、貴方からの返事は淡泊なものでしたが、急に会おうと文が届きました。そのことで私に伝えたいことがあったのではありませんか?」

 鋭い。
 相変わらず、先読みの名人だった。
 ――と感心している場合ではない。
 維月は、しどろもどろになりながら、何とか言葉を紡いだ。

「私は元気になったので、朱音さまに、良くして頂いたことのお礼を、申し上げたかっただけですよ」

 何とか言い切った。しかし……。

「そういう駆け引き、もう飽きましたから」

 瞬時に、朱音から一蹴されてしまった。

「本当におかしいですね。私が主役なのに、呪われているという自覚すらないまま、解決するのですか?」
「お言葉ですが、朱音さまが気づいてしまったら、駄目なんです。そこに至るまでに解決しなければ……」
「維月。私はこれ以上愚鈍でいたくありません」

 朱音は前置きをすると、下を向いて、言葉を噛みしめるように語り始めた。

「私は、帝には弟がなるべきだと、ずっと思っていました。私にはむいていない。父上のように長く帝位に留まる自信もありませんでした。だから、今まで、妃を迎えることを拒み、貴方の入内も反対していました」
「そうだったのですか……」

 他の妃の入内の話をした時、不機嫌だったのは、そういう理由があったから。
 朱音は、最初から東宮の位に執着していなかったのだ。独り次代の帝という重圧に、苦しんでいた。

「私は、弟の仇を討ってやりたい。その一心で、貴方を受け入れたのです。情けない。こんな私ですから、命を狙われるのも当然だったと思います」

 そして、自嘲気味に笑ってから、朱音は真っ直ぐ顔を上げた。

「貴方に会えない時間、私なりに調べてみたのです。私のことを、殺そうとしていたのは、やはり、桐壷の更衣。以前、淑景舎にお住まいだった方ですよね」

 そうして、朱音は懐から小さな木箱を取り出したのだった。