◇

 帳が降りてから、ルイスはレイラが寝たことを確認して、静かに家を離れた。

 ところどころに街灯はあるけれど、足元が暗いことに変わりはない。
 しかし、ルイスは迷いなく歩き進めていく。

 その顔つきは、険しい。

 噂の魔法使いに会えるだろうか。
 会えたところで、頼みを聞いてもらえるだろうか。

 そもそも、本当にレイラの病気は治せるのだろうか。

 その不安がにじみ出ていることは明らかだった。

 アルバの扉の前に立つと、店内の賑やかな声が聞こえてきた。
 これほど楽しそうな雰囲気の中に、噂の人物がいるとは到底思えない。

 だが、自分の目で確かめずに帰るなんてできるわけもなく、ルイスは扉を開けた。

「いらっしゃい」

 リリは言いながら、入って来たのがルイスであることを認識した。
 ルイスはリリに言葉を返さずに店内を見渡している。

「ルイス」

 名を呼ぶと、ルイスはリリを見た。
 リリはそのまま、視線を店の奥にやる。

 そこには、楽しい雰囲気にはとても似合わない黒ずくめの男がいた。
 二人掛けの席に一人で座り、酒を煽っている。

 明らかに空気感が違い、誰も寄り付こうとしないそこに、ルイスは足を向けた。

 来る途中の緊張が込み上げてきて、固唾をのむ。

「……話がある」

 男の席のそばに立つと、何の前置きもなく言った。
 男はルイスを一瞥すると、また酒を飲む。

 あからさまに無視をされ、ルイスは苛立ちを覚えたが、必死に堪える。

「どんな病も治せる魔法使い、ライアン・ロペスって、あんただろ」

 ルイスが懲りずに声をかけたことで、男は心底面倒そうにため息をついた。

「確かに、それは僕の名です。が、名乗ることもしないで話だなんて、随分と常識のない方ですね」

 なんとも棘のある言い回しだった。
 わざとルイスを怒らせようとしているとしか思えない。

 ここで感情に任せて行動すれば、相手の思うつぼだろう。
 この怒りは抑え込むべきだ。

 そう思ったが、気に入らないものは気に入らない。

 いっそのこと、難しいことは考えずに行動してしまおうか。
 そうすれば、このストレスからは解放される。

 そう思ったけれど、今こうして気に入らない男と話そうとしているのは、レイラのため。

 自分のせいで、チャンスを潰すわけにはいかない。

 ルイスはゆっくりと深呼吸をし、気持ちを落ち着かせる。

「……ルイス・ホワード」

 ルイスが名乗っている間も、ライアンはルイスに興味を示さなかった。
 すでにあった酒のつまみを食べる姿に、落ち着かせたはずの怒りがまた、込み上げてくる。

「酒一杯分ほどであれば、聞きましょう」

 しかし意外なことに、ライアンはそう言った。

 というのも、ライアンがここにいたのは、リリに呼び出されたからだった。
 依頼したいことがあると言われて待っていたら、ルイスがやってきた。

 それだけのピースが揃えば、ルイスが依頼者であることは容易に分かった。

 ライアンが目の前の席に手を向け、ルイスに座るよう促す。

 ルイスが剣を椅子に立てかけ、座ると、タイミングよくリリが飲み物を運んできた。
 まだ酒が飲める歳に達していないルイスには、アルコールが含まれていない飲料が出された。

 すっかり喉が渇いてしまっていたルイスは、話す前にそれを飲んだ。
 いつも飲んでいるものはよく舌に馴染み、ルイスの緊張を若干解した。

「俺には妹がいるんだが、その妹が病で長くは生きられない。今は薬で症状を抑えているが、いつどうなるか、わからない状態だ」

 話す内容も、ルイスの声のトーンも、やはり店の空気感には合わなかった。
 その賑やかさに、自分の声が搔き消されてしまうのではないかというほどだ。

 ライアンが相槌すら打たないから、聞こえているのか、そもそも聞いているのかわからない。

 ルイスは、聞いているだろうと自分に言い聞かせて、続きを話す。

「そんな中で、あんたの噂を聞いた。あんた、どんな病も治せるんだろ?」

 ライアンは黙って酒を煽る。

「頼む。妹を治してくれ」

 ルイスが懇願しても、ライアンは何も言わない。
 そして酒を飲み干すと、机に置いた。

「お断りします」

 たった一言。

 あまりにも間髪入れずに言われたものだから、ルイスはライアンの言葉を処理できなかった。

「え……」
「ですから、お断りしますと言ったんです」

 もう一度、はっきり言われたら、さすがに理解する。

「どうして……話、聞くって言っただろ」
「ええ。ですから、聞きましたよ? 妹さんの病気を治してほしい、と」

 で、断ったんですよ。

 言葉にはしなかったけれど、ライアンの表情がそう語っているように見えた。

 そこまでされると、我慢の限界だった。

 ルイスは剣を手に取って引き抜くと、躊躇うことなくライアンの首元に剣を突きつけた。

 店内の楽しい空気が一変する。

 ルイスたちの近くにいた客は、席を立って二人と距離をとった。

 しかし剣を向けられている本人は、怯えるどころか不敵な笑みを浮かべている。

「そんなもので、魔法に勝つおつもりですか?」

 ライアンが右手の人差指を立てると、その先から小さな炎が現れた。

 ただ距離を取っただけの客たちは、これから起こることを予測したのか、店の外に逃げ出した。
 残ったのは、リリと二人の戦いを面白がる野次馬だけ。

 どちらから攻撃するか。
 その緊張感に包まれた中で、二人は水を被った。

 リリが、コップに入れた水を容赦なく二人にかけたのだ。
 想定外の出来事に驚きながらリリを見ると、額には血管が浮き上がっているようだ。

「頭は冷えたかい、このバカども」

 二人は手のひらで顔に付いた水を拭う。
 すっかり意気消沈している。

 落ち着いた二人を見て、リリは呆れたように息を吐き出した。

「ライアン、ルイスの妹を診てやってくれないか」
「……いくらリリさんのお願いでも、嫌なものは嫌です」

 ルイスと対しているときには面倒そうにしていたが、今は少し違うように見える。
 ライアンはルイスに視線を送る。

「魔法にどんな期待を抱いているのか知りませんが、魔法は万能ではないんですよ」

 ルイスが最後の頼みという雰囲気で言ったこともあって、ライアンはそれだけの責任のようなものを感じ取っていた。

 それを負う気は一切ないから、断っていたのだった。

「それはわかってる。でも、レイラにしてやれることがあるなら、全部やってやりたいんだ」

 なにを言っても、ルイスが引くことはなさそうだ。
 ライアンは改めて面倒そうにため息をつき、頭を掻いた。

「診るだけですからね」
「ありがとう……」

 ルイスは泣きそうな顔をして頭を下げた。

   ◇

 夜が明けて、ライアンを連れて家に戻ると、レイラはまだ眠っていた。
 家を出るときと様子が変わっていないことに安心しながら、レイラのそばに行く。

 規則正しく寝息を立てるレイラは、いつもより落ち着いているように見える。

 そんなレイラを見守るルイスの瞳は、とても優しかった。

「随分と不衛生な場所に住んでいますね」

 ライアンは二人のやり取りを横目に、あたりを見渡した。

「……この環境が、一番レイラにはよくないってわかってる。でも、金がないんだよ」

 ルイスが悔しい様子で言うと、ライアンはそれ以上は言わなかった。

 二人が言葉を交わしたからか、レイラの瞼が動いた。

「悪い、起こしたか?」

 レイラの目が開いたのを確認すると、ルイスは言った。
 その声が店で聞いた声とあまりにも違い、ライアンは聞き間違いかと思った。

「おはよう、お兄ちゃん……」

 寝ぼけた声を出しながら、レイラは身体を起こす。
 そしてライアンを見つけた。

「えっと、その人は……」
「ああ、昨日話しただろ? 早速来てもらったんだ」

 希望を見いだしたルイスの喜びは、その表情ににじみ出ているが、対してレイラは気まずそうにライアンを見た。

 てっきりレイラも同じような反応をすると思っていたから、ライアンは少しばかり驚いた。

「……お兄ちゃん、何の準備もせずにつれてきたらダメだよ。それも、こんな朝早くに」

 ルイスはレイラの冷たい物言いに、戸惑いを見せる。

 しかしレイラが言うことは正しい。
 レイラに言われたことで、ルイスは自分が浮かれていたことに気付いた。

「ごめん……」
「申し訳ないと思うなら、朝ご飯買ってきて」

 まるでわがまま娘のよう。
 レイラがそのような言い方をするのも、わがままを言うのも珍しくて、ルイスは豆鉄砲をくらった鳩のようだ。

「貴方は、何か食べられますか?」

 ルイスが戸惑っているのをよそに、レイラはライアンに尋ねた。

「いや、遠慮しておきます」
「そうですか。じゃあお兄ちゃん、私の分の朝ご飯、お願いね」

 レイラに言われて、ルイスはまだ混乱しているというのに、家を追い出されてしまった。

 一人になれば少し冷静になってきた。

 レイラが失礼だと言ったのは、本音だろう。
 だが、あのわがままはわざとらしかった。
 急だったし、なにより、レイラらしくなかった。

 ルイスを体よく追い出そうとしただけなのではないか。

 そう思ったけれど、わざわざルイスを追い出して何をするつもりなのかもわからず、ルイスは考えるのを辞めた。

 いつもの市場に向かって、レイラのお気に入りのパンと飲み物を買うと、家に戻る。

「おかえり、お兄ちゃん」
「ただいま。朝ご飯って」
「そんなことより、ライアンさんが治してくれることになったから」

 ルイスが確認する言葉を遮って、レイラが嬉しそうに言った。

 一切気乗りしていなかったライアンが頷いたのが信じられず、ルイスはライアンを見る。
 しかし、無表情のライアンを見ていては、なにもわからない。

「そういうわけだから、もう薬買わなくていいからね」

 ルイスは素直に喜べなかった。

 レイラが朝食に対して”そんなこと”と言ったこともあって、なにか企んでいるように感じて仕方なかった。

「……本当か?」

 レイラに確認をしたとて、頷くに決まっている。
 そこで、ルイスはライアンに尋ねる。
 ライアンを見るその視線は、睨んでいるようだ。

「ええ、本当ですよ」

 ライアンは変わらず涼しい様子で言うから、ルイスはますます疑り深くなる。

 だが、あれだけ気乗りしていなかったライアンが引き受けたことに対して文句を言い、なかったことにされては困る。
 そのため、これ以上はなにも言えなかった。

「今、どのような薬を服用されているのか知りませんが、魔法との相性が悪ければ、効果も当然なくなる。そうしないためにも、薬は必要ありませんよ」

 そう言われると、信じるしかない。

「……わかった」

 まだ不安は残るけれど、ライアンが言うのだから、と自分に言い聞かせた。

「そうだ、金は」
「いりません。僕に渡すくらいなら、彼女にもっといいものを食べさせてあげてはどうです。今、街では砂糖菓子が人気ですよ」
「お菓子?」
「今度持ってきましょうか?」

 ライアンの言葉にレイラが反応すると、ライアンはそう返した。
 ルイスが出ている間に、すっかり仲良くなったらしい。

 二人が距離を縮めていることは面白くなかったが、レイラが自然に笑うから、文句が言えなかった。

 それから一か月ほど、ライアンはほぼ毎日レイラのもとを訪れた。
 その際、砂糖菓子の差し入れもしていたこともあって、すっかりルイスも警戒心を解いて、信頼を寄せるようになっていた。

 しかし、それを打ち砕く出来事が起きる。




 レイラが、死んだのだ。




 ルイスが仕事から帰ったその日も、ライアンはレイラのもとに来ていた。

 レイラがベッドに眠っているのはいつも通りだが、ベッドのそばに立つライアンの纏う空気が妙だった。

「ライアン、なにかあったのか?」

 聞いても、返事がない。
 ルイスの声が聞こえていないのではないかと思うほどに、反応すらない。

 不思議に思ってライアンに近寄ると、ルイスは気付いた。

 レイラが息をしていないことに。

「レイラ……? 嘘だろ、おい、レイラ! 目を開けろ!」

 レイラの体を揺さぶるが、レイラが目を開けることはない。

「無駄ですよ。彼女は今、息を引き取ったんですから」

 ライアンの冷たい声に、ルイスは怒りが込み上げてきた。

 怒りに身を任せ、ライアンの胸倉を掴んだ。
 ライアンを睨みつける瞳は、涙で滲んでいる。

「お前、治せるって言ったよな!? ずっと、なにしてたんだよ!」
「なにもしていませんよ。あれは全て噓ですから」

 ライアンの声はいつまでも冷たい。

 騙されていたことに対しての怒りよりも、目の前の現実に対しての絶望が勝り、力が抜ける。
 ライアンはその力が弱まったうちに、ルイスの手から逃げた。

「どういうことだよ……なんで……」

 ルイスの顔は絶望に染まっていく。

「僕の治癒魔法でも治せないほどに、彼女の病は彼女の身体を蝕んでいたというだけです」

 冷静に説明されても、ルイスは頭が追い付かなかった。

 ライアンはそんなルイスなど気にせず、レイラを抱き上げた。
 ライアンに横抱きをされたレイラの手が、重力に従って落ちる。

「おい、なにしてる」
「彼女は僕がもらっていきます。そういう約束だったので」

 ただただ混乱していたが、大人しくレイラを連れて行かせるわけにもいかず、ライアンの腕を掴む。

「約束って、どういうことだよ」
「彼女が死んだら実験台にしてもいいと、彼女に許可をもらったんです」

 いつの間にそんな約束をしたのか。

 そう聞こうとしたが、思い当たる節があった。

 レイラがわがままを言った、あのとき。
 そのときにきっと、約束をしたのだろう。

「なんだよ、それ……ふざけんな……ふざけんな!」

 それを言うのが精一杯だった。

 いつまでも食い下がらないルイスを面倒に思い、ライアンはため息をつく。

「だいたい、貴方にとっても悪い話じゃないと思いますよ。僕は彼女を甦らせるだけなので。まあ、上手くいく保証なんてどこにもありませんが」

 ライアンはルイスの理解を得る必要はないと思い、ルイスの手を払い退ける。
 再びライアンの腕を掴む気力は、ルイスにはなかった。

「では、僕はこれで失礼します」

 そしてライアンは移動魔法を使った。
 魔法を使った光が眩しくて、ルイスは目を閉じる。

 目を開けたときにはライアンだけでなく、レイラの姿もなかった。

 なにも守れなかったどころか、すべて奪われてしまった。

 その現実と自分の愚かさに、ルイスは喉が壊れてしまうほど泣き叫んだ。