青い空が暗くなり始めたとき、エマ、アリア、リリの三人で開店準備をしていると、ルイスが戻ってきた。

「仕事放棄かい?」

 リリの嫌味を聞き流し、二人の視線すらも無視し、ルイスは一番奥の席に座る。

 ルイスは疲れているようで、座ったことで一息ついた。

 よく見れば、ルイスの左肩や頬に新たな傷ができている。

「リリさん、救急箱ってある?」

 机を拭いていたエマは、リリに尋ねた。
 ルイスを心配しているのは、その表情を見れば容易にわかった。

 しかし、リリにとっては、あの程度の傷はかすり傷。

「あれくらい、放っておけば治るよ」

 リリがそう言っても、エマは顔を顰めるだけ。

 リリは小さくため息をつき、エマに救急箱を渡した。
 エマはそれを受け取ると、ルイスの元に行く。

 しかし自分の怪我に無関心なルイスは、エマが近寄ってきたことに気付いていながら、そっぽを向いたままだ。

「傷の、手当て……」

 ルイスの不機嫌なような態度に若干萎縮してしまい、声が小さくなった。

 それでもルイスは無視を貫く。

 すると、エマはルイスの両頬を挟み、無理やり自分の方に向けた。
 エマの頬は、膨れている。

「ルイスさんは、もっと自分を大切にしたほうがいいと思う!」

 怒りの込められた声は、さっきのとは裏腹に、大声だった。
 それに驚いたのは、ルイスだけではなかった。

 しかし、エマの表情はただ怒っているようには見えない。
 今にも泣きそうな、悲しみが滲んでいる。

 自分を犠牲にする、自分が傷ついても平気なフリをする姿が、マチルダと重なったのだ。

 一方、ルイスからしてみれば、その顔が、妹のレイラと重なった。

『お兄ちゃんにはもっと、自分を大切にしてほしいよ』

 エマよりも深い悲しみに染まった表情。
 それは、今でも脳内にこびりついている。

 その顔を思い出したからか、ルイスは静かに目を閉じた。

 エマはそれを、手当ての許可だと受け取り、ルイスの頬にある傷を消毒し始める。

 そんな二人を、カウンター席から見ていたアリアは、ルイスに嫉妬の眼差しを向けている。

「そんなに怖い顔をして、どうしたんだい」

 リリが声をかけると、アリアはますます顔を顰めた。
 その表情には全てが書かれているようだった。

「……ここに来たことが、少しずついい方に向いてきたのかもしれないね」

 それを読み取ったリリは、グラスを磨きながら、優しい笑みを零して言う。

 まさに、アリアが感じていることに対する言葉だった。

 エマが閉じこもることなく、自ら行動している。
 その姿を見ることができただけで、家を出たことに対する後悔は小さくなっていた。

 そう、それは喜ばしいことのはずなのに。

「そんなにルイスが嫌いかい?」

 嫌いというよりかは、気に入らないという言葉が相応しいだろう。

 しかし、明らかにルイスの耳に届くとわかっていながら、肯定するのは抵抗があった。

「……良い奴であることは、わかりました」

 あと廃墟で、アリアはルイスを慕う子供たちを見た。

 とても健康的とは言えないであろう子供たちが、目を輝かせて、ルイスのことを語っていたのだ。

『俺たち飯が食えるようになったのは、ルイス兄ちゃんのおかげなんだ』
『ルイスくんがいなかったら、私、まだ大人たちに叩かれてたかも』
『ルイス兄ちゃんは、僕たちのヒーローだよ』

 あんなにも純粋な瞳を見たら、嫌でもルイスが善人であることを理解させられる。

 自分が抱いた印象がすべてではなく、認識を改めるきっかけにはなった。

 それでも今、アリアがルイスを認めたくないのは。

『ルイスさんは、誰かのために自分を傷付けてしまう人なんですよ』

 テオの切なそうな横顔が、脳裏によぎる。

「でも……自己犠牲精神が、気に入らない」

「誰かのために自分を傷付けたって、誰も幸せにならない」

『アリア、エマをお願いね』

 マチルダは、アリアにすべてを託して、あの選択をした。

 しかしアリアは、それが正しかったとは、今でも思えなかった。

 たとえ逃げられないのだとしても、エマとの未来を願ってほしかった。
 あの時間を守るための選択をしてほしかった。

 そう願ってしまうのは、いけないことなのだろうか。

「……相手の幸せを願うなら、自分のことも大切にすべきだと、私は思います」

 ただ願うことしかできない悔しさが、声に滲む。

 すると、アリアの頬に一筋の涙が零れる。
 まさか泣くとは思っておらず、アリアは慌てて涙を拭う。

「ルイスは……多分、自分を大切にする方法を見失ってるんじゃないかな」

 リリは手元に視線を落としている。
 その声はあまりにも静かで、暗い表情に拍車をかけている。

 アリアはどうしてそんな表情を浮かべているのかもわからなかった。
 だが、踏み込んでいいのか、迷ってしまった。

 その戸惑いに気付いたリリは、ただ静かに告げた。

「……ルイスの一番大事な人もね、亡くなっているんだ」
「リリ」

 いつの間にか、手当てをしてもらったルイスが近くにいた。
 リリが、ルイスの過去に許可なく触れたことに対して、怒っているのは明らかだ。

「勝手に話して悪かったよ。でも、エマたちを巻き込むのなら、教えておくべきじゃないかい?」

 嫌がっているのは、顔を見ればわかった。

 だが、エマもアリアも、声には出さないが、その目には期待が宿っているように見える。

 ルイスは、心底面倒そうにため息をついた。
 そして四人掛けのテーブルの一席に腰を下ろし、静かに話し始める。

   ◆

 それは約一年前のこと。

 ルイスの妹であるレイラは、病に侵されていた。
 ベッドに横たわって咳を繰り返すレイラに、ルイスは表情を険しくする。

 この廃墟が、病人に毒であることは、重々承知。

 だが、親を持たない彼らに、病院に連れていけるようなお金はなかった。

 ルイスはリリから分けてもらった綺麗な水をコップに入れる。

「レイラ、起きれるか?」

 ルイスが呼ぶと、レイラはゆっくりと体を起こした。

 ルイスは薄汚れた机にコップを置くと、レイラの身体を支える。

 栄養のあるものも食べられていないレイラの身体は、簡単に折れてしまいそうで。
 ルイスは一層、慎重になる。

「ごめんね、お兄ちゃん」

 変に緊張していると、レイラが小さな咳をしながら言った。

 あまりにも細い背中に、ルイスは自分の無力さを実感してしまう。
 レイラの言葉も相まって、ルイスは唇を噛む。

「……なんでレイラが謝るんだよ」

 悔しさに歪む顔を見せたくなくて、顔を背けた。

 その視線の先に、水の入ったコップがある。
 それを手に取ると、レイラに渡した。

 レイラはゆっくりと、水を喉に通していく。
 三口ほど飲んで、コップから口を離した。

「だって……私のせいで、お兄ちゃんは危ない仕事してるんだもん……」

 レイラが不安な表情を見せると、それを打ち消すように、レイラの髪をぐしゃぐしゃにした。

 レイラの手の中にあるコップから、少しだけ水がこぼれる。

 そんなレイラを、ルイスは今にも泣きそうな目で見つめている。

「……レイラのせいじゃない。俺は、あの仕事を、気に入ってるからやってるんだ」

 そう言っても、レイラは表情を変えない。
 ルイスの今の言葉を、まるで信じていないようだった。

 なにを言ったところで、レイラは自分を責めることをやめない。

 そう感じたルイスは、話題を変えることにした。

「そんなことより、今日、リリからいいことを聞いたんだ」

 それはルイスにとっても嬉しい話で、自然と笑みが零れている。

 ルイスの作り笑いではない笑顔を久々に見て、レイラもつられて喜びが滲む。

「いいこと?」
「そう。レイラの病気を治せる魔法使いがいるらしい」
「え……」

 驚くレイラの瞳には、希望が宿っている。

 ずっと闇に染められたような目しか見ていなかったから、少しでもレイラに光が宿ったことが嬉しくて堪らなかった。

「よかったな。これで」
「お兄ちゃんが命をかけて働かなくてもよくなるね」

 みんなと遊べる。

 そう言おうとしたのに、レイラが先に行った。

「……だから、俺は魔獣狩りを気に入ってるんだって」
「そうだったね」

 レイラは笑顔を返すが、それはすぐに消えた。

「でも……魔法使いさんにお願いするって……大丈夫、なの……?」

 レイラは言葉を濁したが、ルイスはレイラの心配していることを理解していた。

『この薬……お金は、どうしたの?』

 初めて薬を買って帰ったとき、レイラが一番に言ったのはそれだった。
 “ありがとう”よりも先に。

 鏡のように、ルイスの表情も歪んだ。

 それ以来、レイラがお金のことに触れることはなかったが、ずっと気がかりだった。

 薬代も食事代も、全部ルイスが稼いできたお金で支払われている。
 自分も力になりたいのに、それができないもどかしさに、いつも襲われていて。

 もちろん、ルイスはそれに気付いている。

 お互いに、わかっていて触れないようにしていたのだ。

「大丈夫。俺に任せとけ」

 さっきとは違って、優しくレイラの頭を撫でる。

 その優しさに、温もりに、レイラは泣きそうになった。

 けれど、ルイスには涙を見せたくなくて、それを隠すようにルイスに抱きついた。