それは十年前のこと。

 その日、エマはマチルダに教わりながら、風を起こす魔法の練習をしていた。

 マチルダに言われるようにやっても、エマの魔法では植木鉢に咲く花を少し揺らす程度の風しか起きない。

 マチルダのように、風で花を踊らせたい。

 その一心で、エマは何度も挑戦した。

「エマは努力家ですね」

 剣の稽古を終わらせたアリアは、首にかけたタオルで汗を拭きながら言う。

「一生懸命な姿は素敵でしょう? きっと、アリアの後ろ姿を見て来たからね」

 マチルダが誇らしげに言うと、アリアは照れて視線を逸らした。

「違いますよ。師匠のように、素敵な魔法使いになりたいんですよ、きっと」
「それはそれで嬉しいわ」

 二人が談笑している、そのとき。

「お母さん!」

 それは嬉しいことが起きて、母親を呼ぶような声ではなかった。

 エマの叫び声が聞こえ、二人はエマのほうを見る。

 植木鉢が、スコップが、箒が。

 庭にある物たちが屋根ほどの高さまで上昇し、自由に宙を動き回っている。

 ひたすらに混乱したエマは、魔法を解くことができない。

「エマ、落ち着いて! ゆっくりと魔法を解除するの!」

 そう言われたとて、エマはゆっくりと解除する方法など知らなかった。

 だから、エマはただ魔法を解除した。

 重力に逆らっていた物が、一気に地面に引き付けられていく。

 その内の一つ、植木鉢が、アリアを目掛けて落ちた。

「アリア!」

 名前を呼ばれ、顔を上げて植木鉢の存在に気付くが、気付いたところで逃げられそうにない。

 アリアは両腕で頭を庇う。

 そしてマチルダは風を操り、植木鉢をアリアの後ろに落とした。

 アリアは一切怪我をしなかった。

「師匠、ありがとうございました」
「ううん、なんてことないわ」

 アリアに返事をしながら、マチルダはエマが心配でならなかった。

 エマは自分を責める顔をしている。

「エマ」

 マチルダが優しく呼びかけたのは逆効果だったようで、エマは泣き出してしまう。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……私がもっと上手に魔法を使えたら、アリア姉は危険な目には遭わなかった。ごめんなさい、ごめんなさい……」

 エマは悪くないと言っても、聞く耳を持たなかった。

 ただひたすら、エマは自分を責めた。

 その日以降、エマは魔法には一切触れないどころか、塞ぎ込むようになってしまった。

「師匠、エマは大丈夫でしょうか……」

 マチルダは答えられない。

「一歩間違えたら、アリアを怪我させていた。そのことが忘れられないみたいなの」
「私はなんともないのに……」
「それはあくまで結果論だから」

 そう言われてしまうと、何も言えない。

「……でも私は、エマに前のように笑ってほしいです」

 すると、マチルダは今にも泣きそうな笑顔を浮かべた。

「私もよ」

 そして一度瞬きをすると、その雰囲気は変わる。

 なにかを決心した瞳だ。

「だから、エマの記憶を封印しようと思う」

 アリアはマチルダがなにを言っているのか、わからなかった。

「記憶と、エマが魔法を使えること。この二つを封じれば、エマは前のように笑えるはず」
「師匠、本気で言ってるんですか?」
「もちろんよ。生半可な気持ちで、こんなことが言えるわけないでしょう」

 マチルダの頬に、一筋の涙が流れる。

 エマが楽しそうに魔法を使う姿。
 一生懸命、魔法を練習する姿。
 思うように魔法が使えたとき、喜ぶ姿。

 それが消えてしまうのは、マチルダだって望んではいなかった。

 けれど、このままエマが苦しみ続けるのも耐えられなかった。

「だから、アリア……貴方にも嘘をつかせることになるけれど……」

 アリアだって、エマがどれだけ魔法が好きなのか、知っていた。

 マチルダが覚悟を決めている以上、アリアは口出しできないと思った。

「私のことは、気にしないでください。師匠ばかり苦しい思いをさせるわけにはいきませんから」
「ありがとう……」

 そしてエマが眠っているうちに、マチルダはエマの魔法と記憶を封じた。

「大好きなエマ……ごめんなさい……」

 マチルダはエマの目に浮かぶ涙を、そっと拭った。