昼下がり、四人は目的地である酒場、アルバに到着した。
 今は営業時間外のようで、店の扉に『close』と書かれた看板が掛けられている。

 しかしルイスは、一切気にすることなく扉を開けた。
 小さなベルの音が鳴り響く。

 当然、まだ店内は賑わっていない。
 そこにはただ一人、開店準備のためにガラスコップを磨く女性、リリがいた。

 リリは無遠慮にドアを開けたルイスを睨んでいる。

「アンタは文字も読めなくなったのか」
「急ぎの用があるんでね」

 ルイスはリリの小言を流すと、店内に入っていく。
 すると、リリの視界に一人の少女が映った。

 黒い髪に、赤い瞳。
 目の前にいる、儚げな少女こそが、エマ。

 エマの存在を認識したリリは、カウンターを飛び出した。

 途中、ルイスを突き飛ばしながら、エマの両肩に手を置く。
 エマはなにが起きているのか理解できず、目を見開いた。

 しかしリリは説明するより先に、改めてエマを見つめる。

 胸元あたりまで伸ばされた、ストレートの黒髪。
 見た者を惹き付けて離さない、紅い瞳。
 マチルダによく似た鼻筋。

「アンタがマチルダの娘、エマだね?」

 リリは静かに、優しく尋ねた。
 その表情は、エマが目の前にいることに対して、安堵しているように見える。

 エマが戸惑いながら頷くと、リリはエマを抱き締める。

「無事でよかった……」

 リリは、エマの耳元でそう零した。

 リリの温もりに、目頭が熱くなる。
 初対面のはずなのに、その温もりが懐かしく感じたのだ。

「おい」

 すると、リリの安心の時間を邪魔するような、低く怒りの込められた声が聞こえた。

 突き飛ばされたルイスが、不機嫌を顕にしながら、二人を見ている。
 いや、リリを睨んでいる。

 その目を見たリリは、不服そうにエマから離れる。
 あまりにも身の変わりようが速く、エマは幻を見ていたような気がした。

「おい? それは誰を呼んだんだ、ガキ」

 さっきの優しい声とは打って変わって、不満溢れる声。
 ルイスはゆっくりと視線を逸らし、背中を向けた。

 リリはそんなルイスを鼻で笑う。

 そして振り向くと、その表情は元に戻っていた。
 しかし母と言うよりは、思わず姉御と言いたくなるほど頼れる笑みを浮かべていた。

「さあ、エマ。アリア。疲れただろう。なにか食べるものを用意するから、こっちにおいで」

 リリは手招きをし、カウンターに戻る。
 エマとアリアは言われるがまま、カウンター席に向かった。

 一番最後に店に入ったテオは、ルイスの元に行く。

「ほら、言ったじゃないですか。リリさんに怒られますよって」
「……今のは、違うだろ」

 その機嫌の損ね方は子供のようで、テオは呆れてため息をついた。

「そうだ。自己紹介が遅れたね。私はリリ。昔、この街でマチルダに助けられて以来、仲良くしていたんだ。マチルダがこの街を離れてからもやり取りをするくらいの仲でね」

 リリは懐かしむ表情で言いながら、エマたちの前にサンドウィッチを並べた。

 葉野菜とチーズ、そしてハムカツが贅沢にパンに挟まっている。
 そんなサンドウィッチが、二切れずつお皿の上に。

 エマとアリアは、キラキラと目を輝かせて、サンドウィッチを眺めている。

 すると、エマのお腹が欲のままに鳴った。
 エマは恥ずかしさのあまり、耳まで赤くして俯いた。

 そんなエマを可愛らしく思い、リリは微笑む。

「遠慮せず食べな」
「リリさんのサンドウィッチは最高に美味しいんです。きっと、元気が出ますよ」

 ルイスの相手を辞めたテオは、エマの隣に座る。
 その元気な笑顔に背中を押され、エマはサンドウィッチを小さく齧った。

「おいしい……!」

 エマは感激の声を洩らすと、また一口齧る。
 それはもう、幸せそうな顔で。

 ここ数日、ずっと生気のない表情を見てきたアリアは、嬉しさのあまり泣きそうになった。
 だけど、ここで泣くわけにもいかず、目を擦って誤魔化す。

 そしてアリアも、サンドウィッチを口いっぱい頬張った。

「美味しいね、エマ」

 エマは頷き、また齧る。

 エマが、少しでも前を向いてくれた。

 アリアはそんな気がして、エマを連れ出してよかったと、初めて思った。

    ◇

「リリさんは、どうして私たちがここに向かっているとわかったんですか?」

 サンドウィッチを食べ終えると、アリアは尋ねた。

 空いた皿をカウンター越しに受け取るリリは、一瞬固まった。
 その視線は、エマに向けられている。

 まだサンドウィッチを一切れ残して、ゆっくり食べるエマ。
 リリの視線に気付き、顔を上げた。

 すると、リリの表情が気まずさを示した。

「教えてやれば? 隠しているほうが残酷だってこともあるだろ」

 後ろで暇を持て余したルイスが、無意味に左手首の包帯を弄りながら言った。

 隠しているほうが残酷。

 それは、エマが魔法使いであることを隠していたアリアに言っているようなものでもあった。

 アリアは振り返り、ルイスに鋭い視線を送る。
 しかし睨むだけで、何も言わない。

 ルイスも、その視線に気付かぬフリをして包帯を解いては、巻き直している。

 二人の空気感で、リリは道中に何があったのか、なんとなく察した。

「ルイス、エマのこと喋ったね?」
「……さあ、なんのことやら」

 今度こそ、テオが言っていたように怒られる。

 そう感じ取ったルイスはとぼけた返しをするが、あまりにも下手すぎて、誤魔化せていない。

 リリは当然、ルイスの嘘に気付いた。
 だが、何を言っても過去は変わらないため、ため息を一つつく。
 その表情は、覚悟を決めたようだ。

「マチルダが、魔法使い狩りが始まってすぐ、うちに来てね。私にある物を預けたんだ」

 リリは振り向き、棚から何かを取った。
 そして二人の前に置かれたのは、破壊された小さな紅色の水晶。

 壊れる前はきっと綺麗なものだったのだろう。

 そんなことを思いながら、エマはそれを見ていた。

「これ……」

 一方アリアは、それが何を示しているのかを理解した。
 勘違いであってほしいという願いを込めてリリを見るが、リリは表情を曇らせたままだ。

「……そう。これはマチルダの命が絶えると、壊れる。そういう魔法道具」

 リリが静かに告げると、エマの表情が固まった。
 綺麗だと見惚れていたが、そんな感情は一瞬で消え去った。

 今は割れてしまっているということは、マチルダはこの世にはもう、いないということ。

 リリが話すのを躊躇ったのは、これが理由だった。

 エマの反応を見て、やはり言わなければよかったという後悔が込み上げてくる。

 しかし、話し始めた以上、中途半端なところで終えるわけにもいかないだろうと、そのまま話を続ける。

「マチルダはこれを渡したとき、自分になにかあれば、娘と弟子を頼むって言ってきたんだ。アリアに、ここに来るよう言っておくからってね」

 視線を向けられたアリアは、小さく頷いた。

「まあ私としては、最悪な事態な起きないだろうと思っていたんだけど……そんな甘い話はなかった」

 リリは今一度、粉々になってしまった紅い水晶を見つめる。

 割れないと思っていた、いや、割れてほしくなかった水晶。

 それは容赦なく割れてしまった。

 リリの言葉をきっかけに、店内が沈黙に支配される。

「リリってそんなに頼りになるか?」

 その沈黙を破ったのは、自分には無関係だという顔をしたルイス。

 さっきまでのリリならば凄むところだが、感傷に浸っていることもあり、その態度を水に流す。

「私というより、私の情報網だろうね。エマが魔法使いであることを、隠し続けてほしいって言ってたから」

 ルイスは「ふうん」と、興味なさそうに返した。

「魔法使いって、魔力を認知して見つけてるんだっけ」
「ああ。マチルダは魔力が強いほうだから、上手いこと隠していたらしい。でも、魔法を使えば一発で見つかる。それこそ、エマに魔法をかけ直す、とかね」

 リリには一切そのつもりはなかったのだが、エマはそれを聞いて、マチルダが捕まったのは、自分のせいだと感じてしまった。

 自分に魔法をかけ直してはいないのかもしれない。

 でも、あの日。
 マチルダは風を起こした。

 エマが、望んだから。

 エマの顔色は徐々に悪くなっていった。

「ということは、マチルダさんがエマさんにかけた魔法が消えて、国に見つかるのも時間の問題ってことですか?」

 テオの質問に、リリは静かに頷いた。

 エマの表情に怯えた色が滲んだ。
 自分がマチルダと同じ道を辿るなど、考えてもいなかった。

「でもそれはマチルダが望むことではない」

 その言葉に、アリアが強く頷いた。

「だとしても、タイムリミットは迫ってるんですよね? どうするんです?」
「魔法の効果が消えるのを待つしかないだろ」

 ここで一番冷静なのは、ルイスなのかもしれない。
 誰もテオの疑問に答えられなかったところを、ルイスがすかさず言った。

「大人しく待つだけなんて、できるわけない」
「じゃあどうするんだよ。見ず知らずの魔法使いに、命の危険を晒してでも助けてくれって頼みに行くか?」

 反論してルイスを睨んだアリアだが、すぐに視線を逸らした。

 それは、この場にいる誰もがわかっていた。

 エマの魔力を隠すためには、魔法を使わなければならない。
 しかし、魔法を使えば国に見つかってしまう。

 母親であるマチルダでさえ、その危険を犯すことはできなかったのに、他の誰が、名乗りを上げてくれるというのだろう。

 そうわかっているから、ルイスに言い返す者はいなかった。

「……私も、待つことに賛成」

 すると、エマが小さく手を挙げた。
 驚いた表情を見せたのは、アリアだけではなく、リリもだった。

「ルイス、アンタまさか、エマを巻き込む気かい?」

 リリは察しが良かった。

 ルイスの目的も、それを達成するために足りていないものも知っていたから。
 迷わずその言葉が出てきた。

「俺は、力を借りたいって言っただけだ」

 ルイスは一切言葉を濁さず、真っ直ぐ伝えた。
 その瞳も真剣そのもので、リリは言葉に迷った。

「第一、エマ自身が俺に協力することを選んだんだ。巻き込んでなんかいない」

 心外と言わんばかりの様子で返すと、リリはエマを見た。

「エマ、ルイスがなにをしようとしているか、ちゃんとわかってるのかい?」

 エマは首を縦に振った。

 そして森でのルイスの言葉を思い出す。

『女剣士に守られながら生きるか? それとも、俺と一緒に魔法使いを殺すか?』

 ルイスがどれだけ残酷なことをしようとしているのか、エマなりに理解はしているつもりだ。
 納得は、未だにしていないけれど。

「いつまでも、理不尽な魔法使い狩りが続くのは、イヤだから」

 悔しそうに言うエマを見て、リリはなにも言えなかった。

 実際に、理不尽に大切な人の命を奪われてしまった子の言葉だ。
 重みが違う。

「でも私は、誰かを傷つけるような力の使い方は、したくない」

 エマは振り向いて、ルイスに言う。

「はいはい、わかってるよ」

 ルイスはまるで聞き入れていない様子だ。
 適当に流されたことで、エマは不服そうにする。

 しかしこの場で、そんな甘い話が通用しないと理解しているのは、エマ以外の全員だった。

「ねえエマ、自分がなにを言ってるか、わかってる?」

 下手をすれば、怪我をするだけでは済まない可能性もある。
 アリアは心配一色で声をかけた。

 だが、エマはまるで反抗期でも迎えたかのように、アリアに冷たく当たる。

「わかってる。安心して、アリア姉には迷惑かけないから」

 そういう問題ではない。

 そう思っても、これ以上言ってしまうとさらに嫌われるような気がして、言えなかった。