あれから三日。
二人は長いこと暮らしていた家を捨て、森の中を歩いていた。
縦に並んで歩く二人の間には、会話がない。
アリアは、エマがちゃんと後ろにいるか、ときどき確認しながら、その足を進めていく。
アリアの表情は、心配に染まっている。
エマの顔に、生気がないのだ。
ただアリアの後ろを、たまに樹の根につまずきながら、歩いている。
そんなエマに、アリアはどう声をかければいいのか、未だにわからない。
『アリア、エマをお願いね』
マチルダの言葉に従って、エマを優先して守った。
けれど、これが正解なのか、考えれば考えるほどわからなくなる。
それでも、あのままエマが兵に突っかかっていたら、エマだって処刑対象になっていただろう。
これが、最善だ。
自分にそう言い聞かせながら、前に進んだ。
「エマ、少し休憩しようか」
声をかけるが、エマから反応はない。
頷くことすら、しなかった。
しかし、聞こえてはいるようで、エマは足を止めて近くの木のふもとに座り込んだ。
「食糧を探してくるから、ここで待っててね」
こんな状態のエマを一人にするのは、当然気が引ける。
だが、家から持ち出した食糧は、もうすぐ尽きてしまう。
食べ物がなくては生きていけない。
アリアは後ろ髪をひかれる思いで、食糧探しのためにその場を離れた。
独り残されたエマの耳に、木の葉が揺れる音が届いた。
見上げれば、生い茂る緑が楽しそうに風に乗って影を揺らしている。
あの日、マチルダの風で遊んでいたときみたいだ。
あの、楽しかった時間のよう。
もうあの時間が戻ってこないような気がして、エマはフードを深く被った。
木の実のような赤い眼すらも隠し、小さく丸くなる。
「お母さん……」
寂しさに染められた声に応えたのは、草をかき分けるような音。
アリアが戻って来たのかもしれない。
今の独り言も聞かれたかも。
そう思ったけれど、エマは顔を上げなかった。
そんなエマの視界に、毒蛇が現れた。
明らかに逃げ遅れた距離に、毒蛇はいる。
しかしエマは動かない。
二度と幸せな時間に戻れないのなら。
こんな地獄のような時間が続くのなら。
いっそのこと、終わってしまえ。
そう、諦めてしまっていた。
すると、唐突に蛇の身体に剣が突き刺さった。
「死ぬ気か、お前」
てっきりアリアが戻ってきて、助けてくれたのかと思ったが、聞こえて来たのは男の声だった。
予想外の出来事に、エマは顔を上げた。
エマの赤い眼と、男の目が合う。
男には全身に傷跡があり、エマは少し怯えた様子を見せた。
対して男はエマの赤い眼に興味を抱き、エマのフードに手を伸ばす。
「エマ!」
そのとき、戻って来たアリアが男を突き飛ばした。
油断していた男は、バランスを崩し、後ろによろける。
アリアはエマを庇うようにしゃがみ、剣を男に向けた。
「エマになんの用だ」
その視線はとてつもなく鋭い。
しかし、この状況で男はにやりと笑った。
それはもう、心から楽しんでいる様子で。
アリアもその不気味さに気圧されるが、突き出した剣を引こうとはしない。
「久々に楽しめそうだ」
男は背負っていた剣を、アリアに向ける。
少しでも気を抜けば、殺られる。
男からは殺気を感じないのに、そう思った。
「ちょっと、ストップ!!」
緊張感漂う中で、少年の慌てた声がした。
男の背後から、銀髪の少年が姿を現す。
少年は躊躇うことなく、男の体を引っ張り、アリアから距離を取らせた。
「なにしてるんですか、ルイスさん! リリさんに怒られますよ!」
少年が説教をすると、ルイスと呼ばれた男は舌打ちをし、アリアたちに背を向ける。
ルイスの剣から解放され、アリアはようやく、息ができた気がした。
しかし少年が振り向くと、アリアはまた警戒心を剥き出しにする。
対して、少年の笑みは柔らかかった。
敵では、ないのだろうか。
アリアの警戒心を絆すほどに、優しいものだった。
「すみません、エマさん、アリアさん」
だが、彼に名を呼ばれ、アリアは剣を少年に向けた。
なぜ、彼が名を知っている?
エマを捉えに来た?
だとしたら、容赦しない。
エマは、絶対に渡さない。
アリアの混乱と敵意は、その表情を見れば、手に取るようにわかった。
だからこそ、テオは笑顔を崩さない。
「はじめまして、ボクはテオといいます。ボクたちは、お二人を守りに来ました」
「私たちを……? どういうことだ」
「リリ・ホワイト」
アリアは僅かに反応を示した。
テオが言うリリ・ホワイトが、アリアが訪ねようとしていた人物だったのだ。
「ボクたちは、リリさんに指示されて、ここに来たんです。お二人を無傷で連れてこい、と」
アリアには、テオが嘘をついているようには見えなかった。
しかし、簡単に信用していいものなのかと、疑う心が消えない。
「……どうして私たちの居場所がわかった?」
「アリアさんは聡い人だから、マチルダさんが魔女狩りに遭ったら、人目を避けるために山道を通るだろうって、リリさんが」
それほど見抜かれているのであれば、信用するしかないだろう。
ようやく、アリアは剣を下ろした。
ずっと笑顔を作っていたが、気を抜けずにいたテオは、安堵のため息をつく。
そして、今度は本当に柔らかい笑みを見せた。
「では、行きましょうか」
テオに言われ、アリアは背後にいるエマを一瞥した。
目の前でルイスたちと緊張感漂うやり取りをしていたのに、エマは無関心そのものだった。
もっと言えば、このまま樹と一体化するのではないか、というほどに静かである。
しかし、当然エマを置いていくわけもなく、アリアはエマの手を掴んで引っ張る。
エマが一切抵抗しなかったため、あっさりと立ち上がった。
「……人形かよ」
そんな、されるがままのエマを見て、ルイスが呟いた。
すかさず睨みつけるアリアと、ルイスの横腹をを肘で殴るテオ。
二人の反応に舌打ちをしながら、ルイスは先を行く。
「ルイスさん、エマさんは大切な人を失ったばかりなんですよ? もっと優しくできないんですか」
テオは小走りでルイスを追い、小言を言った。
心底どうでもよさそうな顔で、テオを見下ろす。
「俺が? なんのために」
冷笑し、アリアに引っ張られながら歩くエマを横目で見た。
初めて目が合ったときだけ、揺れ動いたように見えた感情。
それすらも捨ててしまったエマは、やはり人形に思えて仕方ない。
「守られるのが当たり前だと思っているような奴、嫌いなんだよ」
ため息混じりの言葉が、嘘のようには思えなかった。
今のルイスに、なにを言っても伝わらないだろう。
そう感じたテオは、ため息を返す。
「リリさんの指示には、ちゃんと従ってくださいね」
「……わかってる」
それ以上小言は聞きたくないと言わんばかりに、歩くスピードを上げた。
テオは呆れた表情でルイスの背を見ると、また小さく息を吐いた。
少し離れて歩くアリアたちを振り返り、困ったように笑って見せる。
「悪い人では、ないんですよ」
「……あれで悪い人じゃないっていうのは、無理があるだろ」
アリアは躊躇いながらも、正直に返した。
その正論に、テオは若干、動揺した。
「で、でも、本当にルイスさんは面倒見がいいんですよ。そうだ、ルイスさんには妹さんがいて」
弁明を始めたテオの言葉を止めたのは、ルイスの剣だった。
アリアに向けられたときよりも、明確な殺気が漂っている。
アリアと対峙したときは、本当にただのお遊びだったらしい。
まっすぐ首元に伸びる剣を見て、テオは息を呑む。
「お喋りがすぎるみたいだな、テオ」
空気を支配するには十分すぎるほどの低い声。
「……すみません」
テオの声は震えているように聞こえた。
そして脅しが効いたと判断したのか、ルイスは剣を下ろし、また一人で進んでいく。
「……誰が、悪い奴ではないって?」
緊張感から解放されたアリアは、改めて聞いた。
自分の目で見たものがすべて。
とても、ルイスが善人には見えなかった。
あれは、人を殺めたことのある目だろう。
そんな予感が消えない。
「今のは、ボクが悪いので」
アリアはテオが無理しているように見えた。
だが、テオにそう言われてしまった以上、さらにルイスを責めることはできなかった。
すると、エマが小走りで前に出た。
「エマ?」
アリアが呼んでも、エマは止まらない。
そして、エマはルイスの隣に立った。
その場の全員が、エマの行動理由がわからず、エマの様子を見守る。
「……アイツの後ろでお守りされてなくていいのか」
ルイスの嫌味も、ただ頷いて流す。
フードを被っていることもあり、エマの表情は見えない。
ルイスはますますどう扱えばいいのか、わからなくなった。
「私……強くなりたい」
「へえ」
風の音だけが聞こえる中で、エマは呟いた。
三日ぶりの声には、強い意志が込められているような気がした。
だが、ルイスは興味なさそうに返した。
「私が弱いから、お母さんを守れなかった」
滲み出る悔しさ。
そして、復讐心。
そう思っているのは、エマだけではない。
アリアだって、同じように感じている。
だから、エマの言葉を聞いて、アリアは下唇を噛み締める。
もっと自分が強かったら。
こんな風に、穏やかな日常を壊されることなんてなかっただろうに。
そう思わずにはいられなかった。
しかし二人の悔しさとは裏腹に、ルイスは笑顔を浮かべる。
まるで、エマを気に入ったと言わんばかりに。
「で?」
「私に剣を教えてほしい」
その言葉に対して、反応は三者三様だった。
「エマ!?」
「剣って……」
テオと同様、ルイスも不思議そうにしている。
「剣なら、アイツに教われよ」
エマは口を噤んでしまう。
以前の関係性なら、アリアに頼み込んだだろう。
だが今は、アリアを頼ってもいいのかという、迷いがあった。
「てかお前、魔法使いだろ。剣なんて扱って、どうするんだよ」
ルイスのその一言は、マチルダとアリアの努力を打ち砕いた。
予想外の言葉に、エマは足を止め、ルイスを見上げる。
そして、ずっと隠れていた赤い瞳が、大きく開かれた。
「私が、魔法使い……?」
誤魔化すことなどできそうにない状況に、アリアはただ困惑していた。