「お母さーん!」

 エマが花畑の中央から、楽しそうな声で叫んだ。
 離れたところにいたマチルダは、そんなエマを見つめて、優しく微笑んでいる。

 すると、唐突にエマの周囲に風が起こり、花びらが舞う。

 優しい風に包まれながら、エマの笑い声が響く。

「いいんですか、師匠。今、力を使ってしまって」

 マチルダの背後に控えていた細身の女性には見合わぬ剣を腰にこさえたアリアが、心配そうに尋ねた。

 マチルダは右手の人差指を立て、唇に当てる。

 秘密にしろという意味なのだろうが、その表情は慌てているようには見えない。
 むしろ、いたずらを仕掛けた子供のような笑みだ。

「だって、エマが喜ぶ姿が見たかったんだもの。それに、これくらいなら、誰も気付かないわ」

 根拠のない自信のようで、アリアから心配の色は消えない。
 マチルダはそんなアリアに気付いていながら、触れなかった。

「アリア姉、怖い顔をしてどうしたの?」

 すると、花畑にいたはずのエマが、すぐ近くにいた。
 アリアは慌てて笑顔を作る。

「なんでもない」
「本当?」
「本当だよ」

 アリアは信じようとしないエマの頬を、両手で挟んだ。
 それを嫌がる姿を見て、アリアは少しだけ、現実を忘れたような気がした。

 そんな、まるで本当の姉妹のようなやり取りを、マチルダは温かい目で見守っている。

 ずっと、こんな穏やかな時間が続けばいいのに。

 密かに、そう願った。


 今、マチルダたちが暮らす国では、魔法を使う人間が問答無用で処刑されている。

 きっかけは、ある魔法使いが禁忌の術を使ったこと、それだけだ。

 魔法使いは、この世の理を壊す存在。
 それに恐れを抱いた国王は、存在自体を抹消という暴挙だった。

 もちろん、マチルダもその対象。
 いつ自分の番が来るのだろうと、恐怖に怯える夜がないわけではない。

 しかし、エマに暗い顔を見せたくない一心で、マチルダはいつも通りに過ごすことを決めていた。


 そして、その時はやってきてしまった。

 エマがまだ眠っている朝、扉を叩く音がした。
 滅多に人が来ない場所で、こんなにも朝早く。

 朝食の準備をしていたマチルダとアリアは、顔を見合わせる。
 二人とも、覚悟を決めた顔だ。

 アリアはエマの部屋に、そしてマチルダは扉に向かった。

 目を閉じて、深呼吸をする。
 思い出すのは、エマの笑顔ばかり。

「……ごめんね、エマ」

 そう呟くと同時に、マチルダは扉を開けた。
 そこには兵が二人、さらに後ろに人がいる。

 彼は、マチルダと同類だ。

 マチルダはそう感じた。
 きっと、魔法で抵抗したときの対策として、控えているのだろう。

「マチルダ・フローレスだな。我々と共に来てもらう」

 随分と威圧的な声だった。
 それに対してか、これからのことに対してかわからないが、恐怖で指が震える。

 そんなマチルダの手首に、魔力を封じる枷がかけられた。

「……お母さん?」

 一歩踏み出したとき、背後から声が聞こえた。
 振り向くと、なにが起きているのか理解できていないエマと、苦虫をかみつぶしたような顔をしたアリアがいる。

 エマは、しっかりとマチルダの手元を見てしまった。

「お母さん、どこに行くの……?」

 不安に染まった声に、マチルダは答えられない。
 いや、答えたくなかった。

「行くぞ」

 そんな状況でもお構いなしで、兵が言った。
 マチルダはエマに背を向けて、兵について行く。

 エマは、なにも知らない。
 なにが起きているのかも、これからなにが起きるのかも。

 それでも、嫌な予感が消えなかった。

「待って、お母さん!」

 エマの声に、足が止まりそうになる。
 だが、ここで彼らに逆らってしまうと、最悪な状況になりかねない。

 マチルダは感情を押し殺し、その足を進めた。

 当然、エマはマチルダを追う。
 しかし家から出ることは叶わなかった。
 アリアが、エマを引き留めたからだ。

「離して! お母さん!」

 もう一度叫んでも、マチルダは振り返らない。
 エマの怒りは、アリアにぶつけられる。

「どうして引き留めるの!? このままだと、お母さんが……!」

 エマのまっすぐな言葉に、アリアは顔を背けた。

「……師匠に、頼まれていたんだ。エマだけは、絶対に守ってほしいって。自分はどうなってもいい。エマだけは、って」

 そんなことを言われても、受け入れられるわけがなかった。

 マチルダがいて、アリアがいて、初めて幸せだと感じられるのに。
 その幸せな時間が崩壊していく音がした。