Side朔夜

結局、自宅に戻ってから再びホテルに向かう電車に乗るまでに、2時間程かかってしまった。
家を出た時は特に気にならなかったが、久しぶりにちゃんと自分の部屋を見て愕然とした。

……これはひどい。
この中に凪波を連れてくることは、さすがに気が引けた。

服も、資料も、ゴミも、ひっくるめて部屋を埋め尽くしていた。
拾えるだけ拾い、乾燥機付き洗濯機の中に放り込み、ゴミは片っ端からゴミ袋に突っ込む。
部屋の空気はその間入れ替えて、ついでにエアコンをきかせる。

そうして、なんとか誰かを入れても大丈夫という状態にするのに、想像以上に時間を要してしまった。
月はとっくの昔に出ている。
格好つけて、あんなメモを残すんじゃなかった……。

幸い、欲しいと思っていた台本は、決まった場所に置いてあったので無くすということはなかったが。

そこは、凪波が「ここに台本は置いておきましょう」と先に決めておいてくれた場所。
つくづく思う。自分という人間、そして声優は、凪波によって創られ、支えられていたのだ、と。
もし彼女がいなくなったら、僕は、僕としていることができるのか。
そんなことを考えながら、電車に乗り込むと、制服を来たカップルらしき二人組がいた。
イヤホンをシェアして、何かを見ているようだ。

今の高校生は、何を見ているのだろう……。
悪いと思ったけれど、画面をつい覗いてみると、今動画サイトで数多く見ることができる、漫画動画。
僕も一度だけ出版社からの案件を受けたことはあったが、彼らが見ているのはそれとは違うもの。
明らかにプロじゃないと分かる、雑な絵柄。
明らかにプロじゃ無いと分かる、滑舌が甘いナレーション。
だけど、その再生数は、僕が出演した動画よりもずっと多いもの。
それを、カップルの2人が楽しそうに見ている。

ふと気になった。
凪波は、あの動画を知っていたのだろうか。
もし知っていたとして、見ていたのだろうか?
何を思ったんだろう?

あのタイプの動画が一気に出てきたのは、ここ1年以内。
その間、僕と凪波は、僕の新しい仕事について話すことはあったけれど、ああ言う動画のことや、何気ない日常について話をする機会はあっただろうか……。
カップル達は、時折互いに目を合わせながら、楽しそうに見ていた。

僕と凪波が、あんな風に何も考えずに同じものを見て、同じように笑い合うことができたのは、いつだっただろうか……。
付き合う前に、2人で電車に乗って凪波の地元の駅に行った日のことを思い出す。
あの時の僕らの方が、もしかすると周囲から見ればずっとカップルらしかったのかもしれない。

願うなら。
許されるなら。
目の前にいる2人のようなカップルに、僕はなりたかった。


空腹感が走る。
そう言えば、最後に食べたのはいつだったっけ。
収録前に、腹を鳴らさないようにと習慣で食べているコンビニのおにぎりも、今日は忘れていた。

今、すごくお腹が減った。
凪波は今、目が覚めているだろうか。
お腹を空かせているだろうか。

夜景を見ながら、ホテルのレストランで食べるのも、いいかもしれない。
でも、できるなら、今日この後は凪波と2人でいたい。
だから、ホテルのルームサービスをたくさん頼もう。
ゆっくり凪波と一緒にご飯を食べるのも、ずいぶん久しぶりだ。

早く帰らないと。
僕は胸ポケットに入れておいた2枚のカードキーに手を当てる。
はやる気持ちを抑えられない。
電車から降りると、自然と駆け足になる。
自分が全速力をしていたと分かったのは、ホテルに到着し、エレベーターにかけこんだときのこと。
立ち止まった瞬間に汗が吹き出てくる。
ミラーのようになっているエレベーターの壁に映る自分を見て、その無様な姿に笑えてきた。
僕は可能な限りタオルで自分の汗をぬぐい、髪を整えて、エレベーターが目的の階に到着するのを待った。

そうして、エレベーターを降りて、一目散にあてがわれた部屋へと向かう。
早く、早く、早く……!





扉を開ける。
僕は、凪波の姿に期待をする。
しん……っと、部屋の空気が凪いでいる。異常なまでに。
「凪波……?」






僕が残したメモを、地面に落としたまま、凪波の姿は忽然と消えていた。