Side朝陽

それは、論文や報告書、新聞の切り抜きなど様々だった。
「世界中の記憶喪失の症例を集めました」

交通事故がきっかけで新しい記憶を保持できなくなった人がいる。
病気でどんどん記憶を失っていく人がいる。
精神疾患がきっかけで一時的にぽっかり記憶を無くす人がいる。

記憶が戻った人もいるし、戻らずに暮らしている人もいる……。

「記憶とは、五感を通じて得た情報を、ただ覚えることだけではありません。その情報の中でも命にとって重要だと判断したものを忘れないように、保持すること、そして必要な時に取り出す想起という過程があります。今回の凪波さんの記憶喪失は、特定の期間のエピソード記憶だけがぽっかり抜けているパターンです」
「その……エピソード記憶というのは……」
おばさんが聞く。
「これまで経験した出来事に関する記憶……という言い方の方が正しいですね。娘さんは、ペンの使い方や自転車の乗り方、ご自身の誕生日など、日常に必要な知識は完璧に覚えてましたので、意味記憶……あとは体で覚えた記憶についても問題はなさそうでした」
「体で覚えた記憶というのは……具体的にはどういうものなんでしょうか?」
俺が尋ねると、悠木先生は少し考えた。
「例えば、自転車の乗り方やピアノなど楽器の弾き方、スポーツでの体の動かし方は、最初は脳でやり方を考えると思いますが、慣れると無意識でも自然と動けるようになりますよね。これが、体で覚える、ということです」
「なるほど……」

体感したことは覚えている、ということか。

「それで……先生?娘は何故、そのエピソード記憶というものがなくなってしまったのでしょうか」
おばさんが、結論を急かすように聞く。
「最初は脳疾患を疑いましたが、前回のCT検査でもその形跡は見られませんでした。次に外傷性も考えましたが、こちらも目立った形跡はありませんでした」
「つまりどういうことなんでしょうか」
今度はおじさんが、少しイライラしたように答えを急かす。

「1番考えられるのは、心因性ではないかと考えられます」
「心因性……って……」
「それでは、凪波は鬱とか……そういう精神を病んでいた……と言うことでしょうか」
おじさんとおばさんが尋ねると、悠木先生は首を横に振った。
「そこまでは、私には分かりません。あくまでも診察は、情報を元に推察をするくらいしかできませんから」
「そんな……先生だけが頼りなんです、何とかなりませんか?」
「せめて通っていた病院の名前さえわかれば、問い合わせも出来たんですが……」

凪波は見つかった時、財布も何も持っていなかった。
例のメモを除いては。
なので、凪波の東京での通院歴を追うことは不可能だった。

悠木先生は言葉を続ける。
「この記憶障害の場合は、普段の生活の中で、何らかの精神的ストレスを多く抱えてしまった際に起きると言われています。凪波さんの場合はそうですね……流産されていると言う診断も出ているので……もしかすると、それも原因かもしれません」

その言葉が出てきてすぐ、俺は真っ先に一路朔夜の方を見る。
綺麗な顔と評判の、その顔が、苦痛に歪んでいる。

……そうだ。一路朔夜。
お前があいつにしたことを、お前自身が、ちゃんと理解しろ。
そしてもうこれ以上、凪波に関わらないと誓え。

そうしないと、俺は凪波と前に進めない。