Side朔夜

収録が始まって、それはすぐきた。
まずは街中の雑踏のための収録。
集められた声優が、自分で設定を考えて演技をする。

そんな中で、僕はたった一人を見つめる。
彼女は、すでに彼女として存在はしていなかった。
ベビーカーに乗せられた赤ん坊になったかと思えば、塾帰りの小学生になっている。
さらには80代のお婆さんにもなっていた。
全く違う演技。全く違うキャラクター。
彼女は、彼女であり彼女でないものになっている。

僕は周囲を見た。
……誰も、彼女を見ていない。
彼女の横にいる、全く演じきれていない女が、注目を集めている。
待って。
どうして誰も、彼女を見ない?
あんなにも、そのものの存在として表現しているやつ、他にいるか?
ふと、大島愛梨を見る。
見ただけで、声がすぐにイメージできる。
あの声は大島愛梨であると、連想させられる力を持っている。

彼女はどうか。
世界観に溶け込んでいる。
でも。
彼女の声だ、とはっきり分かるような音は、僕には聞き取れなかった。

それでも僕は、彼女の全身からの演技……それは、ものの3分程度のものだったとしても……感動させるのには十分だった。

僕は目を閉じた。
そして考える。
今ここはどんなバーチャル世界だ?
彼女は何を意識した。
ヒントがあるはずだ。


……そうか。
すとん、と何かが僕の中に入ったのが分かった。

「監督」
僕は自ら手をあげた。
「もう、やらせてください」

「まだ10分も経ってねえぞ」
「構いません」
「これで失敗したら、俺はお前を降板させる」
この言葉に、やはり怯みそうになるが……。
ちらりと彼女の方を見る。
彼女は僕を見ている。
彼女の視線は、僕の背中をそっと押しているような気がした。
「大丈夫です。やらせてください」


そうして僕は、今自分の中に入ってきた役の魂を表現することに成功した。
大島愛梨も、他の声優達も僕の演技の後、何も言えなくなっていた。
あの営業担当は、泣いて拍手をしている。
そして監督は……。

「できるなら、最初からやれ。アホが」
と、降板宣言は撤回してくれた。

そして彼女は……僕を見てくれていなかった。




「待って!!!」
収録後、僕は彼女を追いかけた。
いつもなら振り返り、立ち止まってくれるのに。
今日は立ち止まるどころか、どんどん駆け足にまっている。

「待ってよ!ねえ!」
僕は全速力で走り、どうにか駅の改札に入る手前で、彼女の手首を掴むことができた。

「心配してた。どうして連絡くれなかった?体調崩してた?」
僕は一気に聞きたいことをぶつける。
彼女は俯いたまま
「離してください」
ぽつりと呟く。小さく、か細く、震えた声だった。
泣いている……?
「どう……した……?」
彼女は、僕が掴んでいない側の手で目頭を拭いながら
「放っておいてください!」
と腹式呼吸の声で叫ぶ。
周囲が「何事か?」とこちらを伺っている。
僕が少し手を緩めてしまった隙に、彼女は僕の手を振り払い、改札の中ではなく別の方向に駆け出していった。

「待って!」
僕は、今彼女を逃したら……もう二度と彼女を捕まえられないと思った。
そんなのは耐えられない、と思った。
その意識こそが、恋なのだということを……僕は同時に気付かされた。

絶対に、逃がさない。
僕は彼女を必死に追いかけた。