Side朔夜

それから僕は、たまたま通りかかったタクシーを捕まえて、次の現場へと向かった。
せっかく動く個室を手に入れたのだからと、次の仕事で使う台本に目を通そうとする。
だけど、頭に入って来ないのだ。

文字は分かる。
だから、何が書かれているかは、理解できる。
でも、文字の並びが何を意味しているのかや、そこから自分がどうすればいいのかが、全く頭に入ってこない。

「一路様、安心してくださいね」

そう言い放った、宮川のりかの形相が脳に刻み込まれてしまった。
その形相は、僕をいとも簡単に、戻りたくない世界に戻してしまいそうになる。
沼に引き摺り込まれそうになる。
息が、無理やり止まりそうになる。

「お、お客様……?」

タクシーの運転手の焦った声が、瞬時に僕を現実へと引き戻す。

「大丈夫ですか?顔色が悪いようですか……」
「大丈夫です……」

と言いながら、ふと僕は凪波を思い出す。
凪波に会いたい。
今すぐに。
そして凪波を抱きしめて、凪波の香りに包まれたい。

家に……帰りたい。
凪波と、僕の家に。
スマホを見ると、一瞬だけなら立ち寄れそうだ。

「すみません、少し立ち寄って欲しいところがあるんですけど」

僕が場所を説明すると

「え、大丈夫ですか?最初のお客さんの行き先とだいぶ違いますけど……間に合います?」
「大丈夫です」
「それにお金もかなりかかっちゃいますけど」
「問題ないです」

時間も、お金も、そんなものはどうにでもできる。
このままの自分でいることの方が問題だ。

「お願いします。向かってください」

僕の言い方に、何かを察してくれたのか

「少しスピード出しますね」

とだけ言ってから、運転手はアクセルを踏み込み、方向転換をしてくれた。
事情を聞かないでいてくれたのは……本当にありがたいと思った。

そうして僕は、どうにか1分だけ凪波を抱きしめるための時間を手に入れることはできた。