Side朔夜

「宮川さん……」

凪波が、その女の名を呼ぶ声で、僕の背筋が一気に凍った。
それは、宮川という女も同じだったのだろう。
急に後退りし始めた。

「な、何よ……!」
「帰りなさい。宮川さん」

凪波は、ただそれだけしか言わない。
それなのに、どうしてだろう。
逆らうのは許さない。
彼女の息遣いだけで……圧がかけられる。
宮川という女は、ちっと舌打ちをしてから

「許さないから……畑野……」

と吐き捨て、走り去っていった。

「凪波……」

僕は、無意識に彼女の名を呼ぶ。
くるりと、凪波は僕を見つめる。
凪波は、僕が家以外で凪波と呼び捨てにしたことに気づいていないのか。
それとも気づいてもあえて気づかないフリをしたのか。
いつもみたいに「畑野と呼べ」と言わなかった。

「……久々にやると……疲れるね……」

それは、今のように声を操るテクニックのことだろう。
僕が惚れた、彼女の魔法のようなスキル。
そして彼女が僕に教えてくれた、僕が一路朔夜として生きるための武器。
凪波の息はあがっていた。
疲れたと、彼女は言ったがそれだけではない。
頬が紅潮している。
パソコンの前にいた時よりずっと、凪波が生きていると思った。
それでいて……凪波をまた、遠くに感じた。
僕は、凪波の体を抱き寄せずにはいられなかった。

「ちょっと……!こんなところで……!」

凪波はすぐに僕から離れようとした。
けれど、僕はそれを許さなかった。

「ごめん……このままでいさせて……」

僕が凪波を抱きしめる力が強くなる代わりに、凪波が抵抗する力が弱まった。
そしてそのまま凪波は、だまって体重を僕に預けてくれた。
決して抱き返すことはしなかったけれど、僕にとってはそれだけで十分だった。


この日から1週間。
凪波は家に戻ってこなかった。
そして僕の仕事の現場には、ベテランの男性マネージャーが来るようになっていた。
ようやく僕が凪波と会えたのは、僕が仕事から家に帰った時。
キッチンで凪波が、僕の大好物の料理を作っていた。
この時僕は喜びのあまり特に気にしなかったが、後から思い返すとあれこそ凪波が出した異変のサインだったかもしれない。

凪波が自分から料理をする時には、ある共通点があったから。