Side朔夜

現れたのは、最近事務所に入ったばかりの新人女性声優。
まだ高校生で、学校帰りにレッスンを受けに事務所に通っているのは聞いたことがあった。
でも、その女の名前は、興味がなかったので覚えていない。

「もうレッスン終わったでしょう。帰りなさい」
「だってー。一路さん見かけたから、会いたかったんだもん」

女は俺に絡みつくように近づいてくる。
ドラッグストアで売っているような、安っぽい香水をこれでもかとふりかけたのが分かる程、甘ったるい臭いが気持ち悪かった。
駄菓子の方が、まだいい匂いがする。

「宮川さん、もう帰りなさい。親御さんが心配するでしょう」

どうやら凪波は、この女と面識があるらしい。

「すみませんねー。売れなかった先生と違って、さっきまでお仕事の打ち合わせしてたもんでー」

宮川という女は、僕に上目遣いですり寄ってくると

「ねえ一路さんー。家まで送ってくださいよー1人じゃ怖いんですー」
「それはちょっと……」

僕は、鉄のお面を被るかのように、不自然にならない笑顔を作った。

「えーいいじゃないですかー。私、最近ファンっていう人に後つけられてる気がしちゃって」
「だったら」

タクシーでも何でも使って帰れよ。
そう、僕が言おうとした時だった。
凪波が、僕と宮川という女の間に割り込んできた。
それから、凪波は、宮川の方を軽く睨みつけた。

「親御さんに連絡して来てもらうから」
「えー何それ、キモいんですけど」
「貴方たちが一緒にいるところを、ファンが見たらどうするの」
「えー?それって、今の女じゃなくってー……私が、一路さんの彼女だって広まっちゃうってことですよねー。最高じゃないですかー!!ねえ、一路さんもそう思うでしょー?」

僕は、この時どんな表情をしていたんだろう。
僕は今、最も愛する人に……僕が恋人になってと懇願した唯一無二の人に、何をさせている?
僕の彼女という存在を抹消しろと言われ、そのために体を酷使させている。
僕と彼女が唯一恋人として存在できる、あの狭い部屋にすら、彼女は今戻れないでいる。
そんな彼女の前で、この女は……何を言った?
手に力が入りそうになった。
この女を、自分の側から一刻も早く離したかった。
僕が手をあげそうになった、その時だった。

パシーン!!

乾いた音が、僕たち以外誰もいない空間に響いた。
それから

「何するのよ!クソババア!!」

右頬を押さえながら、鬼の形相で泣き喚く女と、その女を睨みつけている凪波がいた。