Side朔夜

もう、誰もいない事務所のデスクに凪波はぽつんと座り、ノートパソコンを操作していた。
デスクの上には、凪波が勝負の時によく飲むと教えてくれたコーヒーの空き缶が、複数転がっていた。
生気を失ったかのように、感情1つ読み取れない表情の凪波は、カチ、カチ、とゆっくりマウスをクリックしている。

「凪波……」

本当は、畑野さんと声をかけるべきだったのに、僕は所属声優としてではなく、凪波の彼氏として声をかけてしまっていた。

「どうしたの……?」

いつもなら、呼び捨てにしないでと、凪波は言っただろう。
でも、この時の凪波は、僕の呼びかけに素直に応じていた。
応じる声は、とても弱々しかったけれど。

「ちゃんと……食べてる?」
「……うん……」

でも僕は、それが嘘だとすぐに気づいてしまった。
凪波の手首、鎖骨が……先日僕が触れた時よりずっと、骨張っていたから。
ずっと、食べる暇もなく処理に追われていたのだろう。
僕は凪波に近づき、ノートパソコンを無理やり閉じた。

「そんなこと、君がやる必要がないじゃないか」

僕の行動に驚いたのだろう。
凪波は、目を丸くして僕を見た。
こんな風に、凪波と僕が目を合わせたのは、一体どれくらいぶりだろう。
キスをしたくなるほどの至近距離で。
僕の体からは、凪波に触れたいという欲が込み上げてきた。
そして、凪波はきっと、そんな僕に気づいたのだろう。
ぱっと僕から目を離し、急いで僕が閉じたノートパソコンを開けながら

「ううん……これは、私の仕事だから」

それから、じっと画面を見つめていた。
ありとあらゆるSNSで、僕の名前を検索して、どんな事が書かれているのかを全て、目を通していた。
それから……凪波はもう1度僕を見て

「今日はもう帰って」

と泣きそうな目をして訴えてきた。

そんな目をした君を、どうして置いていける?
僕は嫌だと言いたかった。
一緒に家に帰ろうと、言いたかった。
だけど……言えなかった。
凪波が、僕の声をシャットアウトするように、ヘッドホンをつけ始めたから。
それからもう1つこの時、僕にとって大きな誤算とも言えるトラブルが発生した。

「2人で何をしているの?」