Side 凪波

「結婚とは、安定を手に入れるための手段よ」

これが、母が事あるごとに私に言い放った言葉。
10代の頃は、この言葉を聞くのがいつも嫌だった。

ちょっと将来の話になると
「夢なんて、ふわふわしたこと言ってないで、とっとと結婚しなさい」
「結婚をして、家庭を築いて、子供を産んで育てる。これができて一人前」
こんな風に言ってくる。

まだ、私が中学生で、結婚できる年でないにも関わらず、だ。

だから私は、地元を早く出たかった。
この、視野が狭く、自分たちの価値観を押し付けてくる家族の一員であることが、嫌で仕方がなかった。
私のことを、母に、家族に話すのを拒むようんなった。

地元は、母は、私を結婚という檻に閉じ込めてしまう。
それは、私らしさを殺すことと同意語である。
少なくとも私はそう信じていた。

高校を卒業したら、すぐに東京に行こう。
東京でしか、私は私らしく生きていけない。

そう、強く信じていた。
だから私は、高校時代に親に内緒でアルバイトをしてお金を貯めた。
あっという間に増えた貯金の額は、私を励まし続けた。

そして私は、卒業式の日に制服を着たまま、300万と印字された通帳を握りしめて、新幹線に飛び乗った。
その日の私は、怖いものなど何もないと、自信に満ち溢れていた。

……私が覚えている過去の記憶は、ここまで。
それ以降のことが、完全に空白なのだ。

私は本当に東京に住んでいたのか?
一体何をしていたのか?
全てがわからないまま、次の記憶は真っ白い天井と、私を覗き込む、白髪としわが増えた両親の顔。そして

「凪波!」
と私の名前を呼んだかと思うと、思いっきり覆い被さってくる、記憶の中よりずっと逞しい体になった、幼馴染の朝陽(あさひ)の温かさだった。
最初は、朝陽であるということに気づかなかったのだけれど。


もっとも近しい過去の記憶は18歳だったのに。
しかし、今の私は、28歳……らしい。
かつてAカップほどしかなくコンプレックスだった胸のサイズも、いつの間にかCカップに成長していたので、信じるほかなかった。

10年。まるで私の脳みそにぽっかり大きな穴が空いたかのようで……私が私でなくなってしまったかのようで……とても怖くなったのだ。
私という人間が「不安定」な存在だと、恐ろしくなった。

母はかつて言っていた。
「結婚は、安定を手に入れるための手段だと」
結婚という手段が本当に正しい手段なのかはどうでもよかった。
その手段を取ることで、この心の不安定さを取り除けるなら、私はすがりたかった。