Side朝陽

これまで感じたことがない程の、怒りや憎しみを抱いていた相手と、再び2人きり。
本当なら、好機だった。

どうして凪波を病院から連れ出した?
お前がそんなことをしなければ良かったのに。

怒鳴りつけ、今ではもう嫌味にしか見えない綺麗すぎる顔を、ボコボコにしてやりたかった。

けれど……。

「おい……大丈夫か……?」

どこを見ているかわからない目をした一路朔夜に、俺は思わず声をかけてしまう。
この後、続けるべき言葉が俺の中で見つからないまま。

「ああ……」

俺の言葉の意味を理解しているのか、そうでないのか。
そんなことすら分からない程、小さすぎるリアクションに、俺は戸惑う。

初対面の時は、あれだけ自信たっぷりな様子だった一路。
それがたった1日ちょっとで、一気に別人のように憔悴しきっている。

何が起きたのか。
何をされたのか。
あの人に、あの場所で。

先ほどまでの出来事を思い出す度に、凪波の……あの無惨な姿が呼び起こされ、その度に吐き気が繰り返される。
特に今、用意された、甘いケーキの香りが、余計に吐き気を増長させる。
トイレの場所を聞いておけばよかった……と情けなく後悔している。

かちゃかちゃと、一路の手を拘束している手錠が音を立てる。
この手錠をかけたのは、悠木先生。
あの場所を出される時に、一路だけにつけた。
一路は、抵抗すらしなかった。
いや……できなかっただけなのかもしれない。
それほどまでに、一路は……。

「お前……ほんと座れ……」
「ああ……」

一路は、まだ動かない。

「……動けないのか?」
「ああ……」
「…………今日の天気は?」
「ああ…………」

話の内容が、一切頭に入っていないことがわかった。
俺は、山田さんが動かした椅子を持ってきた。
そのまま一路が尻を下ろせば、すぐに座れる位置に置いた。

「とにかく座れ、俺も座るから」

反対側に用意された椅子に、そのまま俺も座る。
座り心地は、そんなに良いとは思えない椅子だったが、よほど疲れていたのか、すぐには立ち上がりたいと思えなかった。

「しんどいな……」

無意識に出てしまった本音。
だけど、積み重なった重過ぎる話に、自分の心の処理がついていかない。
悠木先生から言われた「1日」というタイムリミット。
凪波をどうするかを決めろ、と委ねられた1日。

ただ、悠木先生が凪波を知るためにと語った話は、俺にはどうしても、現実のことだと思えなかった。
凪波は……本当に死にたいと思ったのか?
そんなやつだったのか?
俺が知っている凪波は……もっと……。
そんなことを考えた時だった。

「……ことがある……」

一路が、ぼそりと……何かを話した。

「わりぃ……聞こえなかった」

空気の流れに、あっという間にかき消されそうな声。
ラジオやテレビ越しで聞いていた……憧れていた一路朔夜の声をは到底信じられなかった。
俺は、少し耳を一路の方に傾けて、聞く体制を作った。
一路は、そんな俺に声を届かせることが大変だと言わんばかりの、苦痛な表情を浮かべながら、唇を動かした。

「君が知っている凪波について知りたい」

今度は、ちゃんと俺の心にまでしっかりと届いた。