Side凪波 

「……凪波ちゃん?……凪波ちゃん!?」
「……おばさん……?」
朝陽のお母さんに体を揺すられて、私は今、夢を見ていたことに気づいた。
「あれ、私……」
頭は、モヤがかかったように、重い。

「大丈夫かい?体調悪いのかい?」
「いえ、大丈夫です」
「それならいいけれど……話しかけても返事がなかったから心配したよ」
「……すみません……」
「疲れてんなら、そこの椅子に座ってればいいよ」

朝陽のお母さんに勧められたのは、キッチンの端に置かれた折り畳み椅子。
頭痛がどんどんひどくなっていくので、私はありがたくその椅子に座ることにした。

「その椅子ね、実鳥ちゃんが買ってくれたんよ」
また、実鳥。
「そうなんですか……」
「最近、台所仕事が腰にくるわーって話をしたら、誕生日に買ってくれたのよぉ」
「そうですか……」
「おかげで、長時間かかるおやつも作れるようになったんよ。ありがたいねぇ」

朝陽のお母さんはそう言うと、私の口に何かを放り込む。
唇にあたるとふわふわと柔らかいと思うもの。
口の中ではサクサクの歯応えをするもの。
舌の上ではとろりと、甘酸っぱい味と香りが広がっていく。

キッチンには、しっかり焼き上がったアップルパイが、切り分けられた状態で準備されていた。
私はそんなに、長い時間眠っていたのだということが分かった。

「どうだい?」
朝陽のお母さんが、緊張の面持ちで聞いてくる。私は素直に
「おいしい……」
と、答える。朝陽のお母さんは安堵したのか、ほうっとため息をこぼす。

「よかったよ。実鳥ちゃんからはお墨付き貰えてたけど、やっぱり人に出すのは緊張するからねぇ」
私はその言葉に対し、ただ笑うしかできない。

実鳥にも味見を手伝ってもらったというアップルパイを、朝陽のお母さんは、鼻歌まじりでよそ行きのお皿に盛りつけ、飾りまで乗せている。
その様子を見つめていると、私が朝陽のお母さんと再会した日の会話がフラッシュバックした。

「辛かったね、大丈夫?」
「困ったことがあれば、何でもおばさんに言うんだよ」

第一声から、とてもとても、気を使われた。
この人に朝陽がなにを伝えたのかは分からないが、尋常じゃないほど心配してくる。
まるで、触れば、すぐに壊れてしまう薄氷のような扱いをされた。
そんな扱いのされ方は、私はよく知っている、気がした。

そして今もまさに、朝陽のお母さんは私のことを大事な客として扱う。
もうすぐ家族になる、という人間としての扱いではなく。

ここは、実鳥や、実鳥の子供が楽しめるように整えられた家だと、話を聞けば聞くほど感じる。
実鳥はこの人達ににとっては日常で、私は彼らにとってはイベントのようなもの。

結局、朝陽と私との結婚については、お母さんとの古い約束がこの優しいお母さんを縛っているだけ。
内心は、本当は私じゃない方が良いのだろう。
少なくとも私ならそう考える。
得体の知れない10年を持つ私より、長い時間かけて着実にこの家に根付いた実鳥の方が、ずっとこの家には相応しい。

実鳥の良さは、私が1番知っている。羨むほどに。
だからこそ、朝陽のためにも、きっと私より実鳥が良い。

ふと、駅での出来事を思い出す。

私のことを探してきたというあの人。
私の記憶には一切存在しないはずの人。
でもあの人の目が、私を本気で求めてくれているのは、何となく分かった。
思い出せば出す程、心の奥底から喜びが湧き上がるのは自覚している。

あの人が求めているのが、本当に私なのかは、私には答えがない。
だけど、本当にあの人が私を知っていて、本当に、心の底から私を求めてくれているのだとしたら。

「おばさん」
「ん?」
私は、トレイにアップルパイの皿を乗せている朝陽のお母さんに
「私がこのパイ持っていってもいいですか?」
と尋ねた。
「あーいいよいいよ。ゆっくり休みな。顔色悪くなってるよ」
とおばさんトレイを持ち上げたが、私は少しずつ酷くなっていく頭痛を堪えながら
「私に行かせてください」
とトレイを奪い取った。

本当は立ち上がるだけでも吐き気がするほどの状態だ。
けれどそれを無視してでも、私はあの人ともっと話してみたかった。

あの人に、あの人が探しているという私のことを、もっと聞きたかった。