Side朔夜

ゆっくりと、唇を離していく。
絹のような柔らかさを惜しむように、そっと。
閉じていた目は、恐る恐る開けていく。
彼女の瞳に映る、僕が見えた。

すると、突然凪波が
「……記憶を無くした私でも、あなたは愛せるのですか? 」
と言った。
「……え?」

この声。
この目。
……間違いない。
そこにいたのは、僕が知っている凪波だった。

「凪波……!?」
「あの……?」
「どうしたの!凪波!?」
「今……何か、言いました?」
「……覚えて……ないの!?」

彼女は視線をキョロキョロと動かす。
苦痛に顔を歪めながら、包帯をしている頭を抑える。

彼女に何が起きているのか全く分からない僕は、ただただ混乱していた。
「凪波、大丈夫?」
と、彼女の手に自分の手を伸ばそうとした。
しかし凪波は僕の体を跳ね除ける。
バランスを崩した僕は、そのまま横に倒れた。

凪波はうつ伏せの状態で、唸り声をあげながら……頭をかきむしり始める。
「あ……私……ここ……記憶……」
かきむしり方が、どんどん激しくなる。
包帯が、徐々に解けていく。
それからすぐ、ぶつぶつと何かを言い始めた。
けれど僕には、凪波の言葉が届いてくれない。

僕が彼女を捕まえようとしたら、彼女は僕の手を払い除ける。
それから、自分の頭を押さえながら、悶え苦しむ。



そして。
もう一度、僕を見た彼女は……。

「…………さく……や……?」

それは、ずっと恋しかった声。

「……凪波!!!」
嬉しさのあまり、力一杯抱きしめようとした。
彼女は、許してはくれない。
震える手で、彼女は僕をもう一度突き放す。

「どうして……!?」
僕を思い出したはずの凪波が、僕を拒絶した。

「……お願い……私を………………」
凪波は頭を押さえながら、息絶え絶えに何かを言っていた。
でも、僕の耳には、それが入ってこない。

凪波の目からは、涙が溢れている。
僕の頬にも、涙が流れる。

「ごめんなさい……」

今度は、凪波の言葉がはっきりと、僕に届いた。

「何が、ごめん……なの?」

僕の声は、震えている。
凪波は何も言わず、首を横に振った。
自分のお腹に手を当てて。

そして僕が言葉を探す前に、凪波は立ち上がろうとした。
まるで、僕から逃げるように。


逃がさない。



凪波を、今度こそ掴もうと僕が手を伸ばす。
でも……。




「残念だ、凪波さん」



その声は、僕の後から聞こえた。
反射的に声の方に振り返ろうとした時、もう二度と見たくないと思っていた光景を、僕は目にしてしまう。

凪波が、頭から堕ちていく。
透明な水の中へと。

「凪波!!」

凪波の頭から包帯がこぼれる。
隠されていた傷が開き、血色の花が広がる。

その姿は、かつて2人で見た絵画、死へと溶けていく乙女……ハムレットのヒロイン、オフィーリア。

急いで駆け寄ろうと思った。
凪波を死神から救おうと。
だけど……。






「実験は、失敗だ」

その声を最後に、僕の目の前には急速闇が広がった。


next memory……