「……ずいぶんと狭いな。もう少し広い部屋に移れるよう言っておく」
鞠の君の前に座った帝の第一声はそれであった。
御簾越しに二人は向かい合った。
「……お久しゅうございます。その……体調優れず、ご無沙汰してしまい、申し訳ありません」
鞠の君はそう言って頭を下げた。
「……いや、私の方こそ……長らく放っておいた。すまない」
帝の声は苦渋に満ちていた。
「いえ……。身に余る、ことだったのです。どうぞ、私を僧兵の方々に差し出しくださいませ。あの方々はそれを建前にやって来ているのです。お飾りにもならぬ妃でございますれば、そのくらいはお役に立ちとうございます」
「…………駄目だ」
「で、ですが」
「……兵部卿宮を動かしている」
兵部卿宮は軍務を司る兵部省の代表にして、帝の叔父でもあった。
「その内、連中は追い払える。あなたが気に病むことは何もない」
「…………」
「……ところで体は大事ないか。越中守の家の牛車から転げ落ちていたであろう」
越中守とは春式部の父のことである。
「……お、お聞き及びでしたか。お恥ずかしい」
「…………見ていた」
「えっ」
「雷鳴壺の女御、あなたは気付いていなかったかもしれないが、皇太弟の牛車が近くにあったろう。あれの中にいた」
「…………」
鞠の君はどう返していいかわからなくなって、黙り込んでしまった。
「……こうしてあなた黙り込んでいると、子供の頃を思い出すな。無口だった鞠の君……」
「…………」
「鞠の君、黙ったままでよい。私の話を聞いてくれ。私は……ずいぶんとひとりの女御を放っておいた。その女御のことを……正直に申して忘れてしまったこともあった。忙しさを理由に放っておいた……自分で妻としてさらってきたというのに、だ。そのような男に、山賊共を退ける資格などないのかもしれぬ。だが……それでもあなたはもう山賊の娘では、ない。断じてない。あなたは……摂関家の娘である」
帝はそう言い切った。
「我が母がそう望み、摂関家の長、太政大臣もそう認めている。山賊に、連れて行かれるいわれなどどこにもない。……私が言いたいことは、それだけだ。……ここにいたいのなら、いていい。出家をしたいのなら、お前のために寺を建てよう。……だから、摂関家の娘として生きてくれ、鞠の君。……私があなたを無理矢理さらってきてしまった。もう、無理に戻れと言わない。ただ、あなたがそうしたいことを、してほしい……」
「……主上」
「ああ、ずいぶんと呼ばれ慣れない」
帝は苦笑した。
「かつては東宮、今は主上……うん、そうだな、私はそうとしか呼ばれようがない男なのだな。それが寂しいこともあったが……今では、それは私の背負うべき名だ……ああ、こんなに放っておいて酷いことを言おう。その名を、あなたが誇れる夫になりたかった」
「…………」
鞠の君は気付けばポロリと涙を流していた。御簾越しで帝には見えない。
それが何の涙なのか、鞠の君にはわからなかった。
しばらくして、鞠の君はようやく悟った。
「……わ、わたくしは」
「鞠の君、泣いているのか」
詰まる声を耳聡く聞きつけ、帝は心配そうな声を出す。
「わたくしは、まだ、あなたの女御を名乗ることを許されるでしょうか」
「…………鞠の君」
帝は、思わず立ち上がり、そして御簾を押し上げた。
鞠の君の側で侍っていた春式部はすっと目を伏せた。
帝は鞠の君に近寄った。かつての東宮がそうしたように、二人は近く寄り添った。
思えば帝が即位してから、これほど近くに寄り添うことなど一度もなかった。
鞠の君は自然と帝の体に身を預けていた。
「…………主上、わたくし、お役目を果たします。帝であらせられるあなたを、お支えする役目を……今からでも、果たせますでしょうか」
「無論だ。無論だとも、鞠の君」
帝は鞠の君を固く抱きしめた。
二人はしばらくの間、そのまま寄り添っていた。
鞠の君の元を一旦辞した帝に、太政大臣は胸を張って告げた。
「摂関家からも手勢を出しましょう。兵部卿宮様の手勢と我が家の武士共を合わせれば、山賊僧兵何するものぞ。わが手勢には弓の名手も槍の名手もおりまする。あやつらをなぎ払い、目に物見せてやりましょうぞ」
血の流れることを穢れと恐れる多くの貴族と違い、この太政大臣、肝の据わった偉丈夫で、いささか血の気が多かった。
「う、うむ」
血の気の多い話はさほど得意ではない帝は少し苦笑いでうなずいた。
「頼もしいぞ」
「……うちの娘を、主上はお気に召さなかったご様子」
「っ……」
太政大臣は先日、入内した姫君の父でもあった。
「となれば、我が家のためにも鞠の君をなんとしても内裏に連れて帰っていただかなければなりませんからなあ」
そう言うと彼は気持ちよく笑った。
「……私がふがいないばかりに、いろいろと迷惑を掛けた」
「いえいえ」
太政大臣は頭を振った。
「さあ、お連れください我が武士共を」
帝は摂関家の武士達を連れ、内裏に舞戻った。
兵部卿宮の指示の元、彼らは山賊を迎え撃つため出陣と相成った。
鞠の君の前に座った帝の第一声はそれであった。
御簾越しに二人は向かい合った。
「……お久しゅうございます。その……体調優れず、ご無沙汰してしまい、申し訳ありません」
鞠の君はそう言って頭を下げた。
「……いや、私の方こそ……長らく放っておいた。すまない」
帝の声は苦渋に満ちていた。
「いえ……。身に余る、ことだったのです。どうぞ、私を僧兵の方々に差し出しくださいませ。あの方々はそれを建前にやって来ているのです。お飾りにもならぬ妃でございますれば、そのくらいはお役に立ちとうございます」
「…………駄目だ」
「で、ですが」
「……兵部卿宮を動かしている」
兵部卿宮は軍務を司る兵部省の代表にして、帝の叔父でもあった。
「その内、連中は追い払える。あなたが気に病むことは何もない」
「…………」
「……ところで体は大事ないか。越中守の家の牛車から転げ落ちていたであろう」
越中守とは春式部の父のことである。
「……お、お聞き及びでしたか。お恥ずかしい」
「…………見ていた」
「えっ」
「雷鳴壺の女御、あなたは気付いていなかったかもしれないが、皇太弟の牛車が近くにあったろう。あれの中にいた」
「…………」
鞠の君はどう返していいかわからなくなって、黙り込んでしまった。
「……こうしてあなた黙り込んでいると、子供の頃を思い出すな。無口だった鞠の君……」
「…………」
「鞠の君、黙ったままでよい。私の話を聞いてくれ。私は……ずいぶんとひとりの女御を放っておいた。その女御のことを……正直に申して忘れてしまったこともあった。忙しさを理由に放っておいた……自分で妻としてさらってきたというのに、だ。そのような男に、山賊共を退ける資格などないのかもしれぬ。だが……それでもあなたはもう山賊の娘では、ない。断じてない。あなたは……摂関家の娘である」
帝はそう言い切った。
「我が母がそう望み、摂関家の長、太政大臣もそう認めている。山賊に、連れて行かれるいわれなどどこにもない。……私が言いたいことは、それだけだ。……ここにいたいのなら、いていい。出家をしたいのなら、お前のために寺を建てよう。……だから、摂関家の娘として生きてくれ、鞠の君。……私があなたを無理矢理さらってきてしまった。もう、無理に戻れと言わない。ただ、あなたがそうしたいことを、してほしい……」
「……主上」
「ああ、ずいぶんと呼ばれ慣れない」
帝は苦笑した。
「かつては東宮、今は主上……うん、そうだな、私はそうとしか呼ばれようがない男なのだな。それが寂しいこともあったが……今では、それは私の背負うべき名だ……ああ、こんなに放っておいて酷いことを言おう。その名を、あなたが誇れる夫になりたかった」
「…………」
鞠の君は気付けばポロリと涙を流していた。御簾越しで帝には見えない。
それが何の涙なのか、鞠の君にはわからなかった。
しばらくして、鞠の君はようやく悟った。
「……わ、わたくしは」
「鞠の君、泣いているのか」
詰まる声を耳聡く聞きつけ、帝は心配そうな声を出す。
「わたくしは、まだ、あなたの女御を名乗ることを許されるでしょうか」
「…………鞠の君」
帝は、思わず立ち上がり、そして御簾を押し上げた。
鞠の君の側で侍っていた春式部はすっと目を伏せた。
帝は鞠の君に近寄った。かつての東宮がそうしたように、二人は近く寄り添った。
思えば帝が即位してから、これほど近くに寄り添うことなど一度もなかった。
鞠の君は自然と帝の体に身を預けていた。
「…………主上、わたくし、お役目を果たします。帝であらせられるあなたを、お支えする役目を……今からでも、果たせますでしょうか」
「無論だ。無論だとも、鞠の君」
帝は鞠の君を固く抱きしめた。
二人はしばらくの間、そのまま寄り添っていた。
鞠の君の元を一旦辞した帝に、太政大臣は胸を張って告げた。
「摂関家からも手勢を出しましょう。兵部卿宮様の手勢と我が家の武士共を合わせれば、山賊僧兵何するものぞ。わが手勢には弓の名手も槍の名手もおりまする。あやつらをなぎ払い、目に物見せてやりましょうぞ」
血の流れることを穢れと恐れる多くの貴族と違い、この太政大臣、肝の据わった偉丈夫で、いささか血の気が多かった。
「う、うむ」
血の気の多い話はさほど得意ではない帝は少し苦笑いでうなずいた。
「頼もしいぞ」
「……うちの娘を、主上はお気に召さなかったご様子」
「っ……」
太政大臣は先日、入内した姫君の父でもあった。
「となれば、我が家のためにも鞠の君をなんとしても内裏に連れて帰っていただかなければなりませんからなあ」
そう言うと彼は気持ちよく笑った。
「……私がふがいないばかりに、いろいろと迷惑を掛けた」
「いえいえ」
太政大臣は頭を振った。
「さあ、お連れください我が武士共を」
帝は摂関家の武士達を連れ、内裏に舞戻った。
兵部卿宮の指示の元、彼らは山賊を迎え撃つため出陣と相成った。