◇◇◇
――夜。
瞑目した青波は、自分の血を含ませた絵の中に意識を集中させていた。人型は操るのが難しいが、今回は上手くいったらしい。
色々察した景和が、急いで神符をはがしてくれたのは、助かった。
――術は発動した。
皇城の中枢は、三つの大殿である。
外交の舞台である「龍辰殿」。政治を司る「凰辰殿」そして、皇帝の生活拠点である「星辰殿」。春霞の寝所は星辰殿内でも、最深部に位置していた。この国の要所に、青波は今宵だけ足を踏み入れることが許されたのだ。
視界も良い。
燭台の灯が、ゆらゆら揺れているのが分かる。
豪奢な寝台に横たわっている春霞の顔を、仄かな明かりが、浮かび上がらせていた。
そして、その傍らにいる女性の姿も……。
「あっ」
術に慣れなくて、青波は素っ頓狂な声をあげてしまった。女性はハッとした顔で、こちらを振り仰ぐ。
一瞬感じた殺意。……が、直後、彼女は染み入るような笑みを浮かべた。こんな表情も出来るのかと、青波は新鮮に感じてしまった。
彼女の目には、今、青波は彼女の最愛の男に見えているはずだ。
――峡 汀。
美女と名高い、透国の正妃は、暗がりの中で魔性の艶めきを放っていた。
「どうして、お前がここに? これは夢なのかしら?」
「………」
外見を作りだすことは出来ても、人となりは分からない。青波が返答に困っていると、しかし、正妃は逞しい想像力で補完してくれた。
「ふふふっ。夢でもいいわ。嬉しいもの。良いところに来たわね。凱」
――凱。彼女にとって、よほど親密な人物なのだろう。証拠に正妃は春霞の寝台から離れると、青波に近づき、親密な距離でないと聞こえないほどの小声で毒を囁いた。
「お前もこの男の最期が見たかったのでしょう? 今夜が峠だから、正妃は特別にここにいても良いんですって。可哀想ね。わたくし以外、誰も看取りに来ないのよ。この国の頂点にいながら、何という孤独。……自業自得だけど」
正妃はうっとり目を細めて、自身の下腹部を撫でる。
やはり……だった。
青波は、春霞の推察が真実であることを悟ってしまった。
正妃は春霞が邪魔で、早く亡き者にしたいと、焦っていた。
――彼女は、皇帝以外の男の子供を身籠っているのだ。
発覚したら、大罪だ。死罪は免れない。
いくら沙葉との関係を荒立てたくないとしても、それとこれは別問題だ。
子供を諦めるという選択が一番かもしれないが、彼女はそれを放棄した。
そして、逆に、皇帝である春霞の暗殺に動いたのだ。
今、ここで春霞が命を落とせば……。
彼女の身籠っている子供は、春霞との子として貫き通すことも可能かもしれない。
どんなに、おかしなことでも、突破できるだけの自信を彼女は持っているのだろう。
「大丈夫よ。バレやしない。ここは先代の皇帝の使えない側近たちが牛耳っていて、腐敗している。この男が死ねば、出し抜く手なんていくらでもあるわ」
まるで正妃は歌うように、陶然と語った。
先日、青波が会った時の彼女は完全武装した状態だったのかもしれない。
とっくに壊れていたのだ。そうでなければ、いくら青波が術を使ったところで、ここまで簡単に白状しなかっただろう。
「早く死ねば良いのに……」
憎悪を含んだ台詞。だが、向けた当人に欠片も届いていないのは、皮肉な話だった。
「……汀妃。残念だけど、あの程度の毒じゃ、私は死ないよ」
「えっ」
嫌味な沈黙の後、彼は欠伸をしながら、よろよろと寝台から起き上がった。
青波には見慣れた真白い寝間着姿。一つ違うのは、帯の部分に寂れた環首刀を差しているところだ。青波が六年前、餞別代わりに渡した「天冩刀」。初めて青波が直接目にする、幽体ではない春霞だった。
「なぜ? 貴方が。……陛下?」
その光景は、彼女にとって悪夢だったに違いない。たった今、自分が何を喋っていたのか……。暴言の数々に、さすがに正妃も恐れをなしたようだった。
「や、やだ。違う。凱。何処にいるの? 凱?」
春霞から目を逸らさず、正妃は愛しい男に縋りつこうとするが、青波は彼女に寄り添うことは出来なかった。予め決めていた合図は、春霞が目を覚ますことだ。今まで、彼女の傍にいたのは、凱という男を模して作った青波の人形で「護神法」の応用。
――幻なのだ。
術を解除した青波は、待機していた隣室からすぐに動いて、今まで凱がいた場所にやって来た。一応、非礼は詫びなければならない。
「申し訳ありません。お妃様」
「何、お前? ここには凱がいたはずよ?」
「残念ながら、凱様はこちらにはいらっしゃいません。貴方様のお腹のお子様の父親は、沙葉の左将軍の御子息。溌 凱様なのではないかと陛下が仰って。私もその可能性を否定できず、貴方を試してしまいました」
青波が妃に尋問を受けた日の翌日。
丁度、三日目。
無事、肉体に戻った春霞は、景和に神符をはがすよう指示を出し、青波は「護神法」で鳥を使い、春霞に会うことに成功した。異様に慎重だった春霞が術とはいえ、青波と直接会うことを決めたのは、それだけ切迫した事態だったということだ。
そこで春霞から、聞いてもいないのに、身の潔白を切々と訴えられ、正妃の想い人なら知っていると告げられた。正妃を問い質すのなら、傍観はできないと、青波は自ら協力を申し出たのだ。
春霞の策は非情に感じたが、それだけ、権謀術策渦巻く世界で生き抜くのに必死だったのかと、悲しくもなった。
……春霞は悪くない。けど、騙まし討ちのようで、後ろめたかった。
正妃は、まるで状況を理解していなかった。
「女官達は、何処に行ったの?」
「残念だけど、汀妃。貴方が離れた所で待たせていた女官は、ここから避難してもらった」
「避難ですって?」
「貴方はやりすぎたんだよ。誰ももう貴方を庇ってはくれない。まあ、足繁く温浴場に通い、そこで郷里の男と逢引している程度なら、私も微笑ましく見守ることも出来たんだけど」
「はっ? 最初から全てご存知だったんですか。悪趣味な!」
もっともな叫びに、青波は深く頷いてしまった。青波が正妃側についたのが気に入らないらしい春霞は、唇を尖らせて言い返す。
「分かっているよ。その趣味の悪さで、命を狙われたり、今まさに、大切な人に幻滅されているってことはね。でも、子供が出来たからって、殺されたら堪らないよ」
「でも、わたくしは毒なんて……」
正妃はとっさに、白を切ろうとしたが、しかし、もう無駄だった。
「沙葉原産の毒薬だから、足がつかないって思った?」
春霞は淡々と追い詰める。多分、こういうところが、人の癇に障るのだ。
「だが、人選は慎重にすべきだった。貴方付きの女官は私が尋ねたら、すぐに白状した。貴方の指図で薬師を動かし、私に毒を盛ってる……と。本当はその時、すべてを暴いて貴方を問い詰めても良かったんだけど。死にそうなふりをして正解だった。敵と味方の区別もついたし、貴方の殺意の動機も分かった。青波のおかげだ。助かったよ」
「違います。私は」
突然、話題の中心に据えられて、青波は困惑した。決して自分は賢いわけではない。春霞が瞬氏のことにかまけず、もう少し熱心に調べていたら、正妃の懐妊はとっくに見抜けていたはずだ。
「幻華。お前……。そういうこと?」
春霞が青波に向ける熱い視線に気づいて、正妃は狂ったように、嗤った。
「馬鹿みたい! 陛下は最初から、隠していた妃を手元に迎え入れるために、大病を装い、わたくしを嵌めたってことでしょう」
「だから、それ違います。私はそんな大層な方では……」
「お黙り! 下品な娘がわたくしに直接、話しかけないで!」
そして、正妃は血走った目をして、青波の方に身体を傾けた。
「思い通りになんて、なるものですか!」
すべては、一瞬の出来事だった。突如、髪に挿していた簪を抜き取って、彼女は青波に襲いかかったのだ。
――夜。
瞑目した青波は、自分の血を含ませた絵の中に意識を集中させていた。人型は操るのが難しいが、今回は上手くいったらしい。
色々察した景和が、急いで神符をはがしてくれたのは、助かった。
――術は発動した。
皇城の中枢は、三つの大殿である。
外交の舞台である「龍辰殿」。政治を司る「凰辰殿」そして、皇帝の生活拠点である「星辰殿」。春霞の寝所は星辰殿内でも、最深部に位置していた。この国の要所に、青波は今宵だけ足を踏み入れることが許されたのだ。
視界も良い。
燭台の灯が、ゆらゆら揺れているのが分かる。
豪奢な寝台に横たわっている春霞の顔を、仄かな明かりが、浮かび上がらせていた。
そして、その傍らにいる女性の姿も……。
「あっ」
術に慣れなくて、青波は素っ頓狂な声をあげてしまった。女性はハッとした顔で、こちらを振り仰ぐ。
一瞬感じた殺意。……が、直後、彼女は染み入るような笑みを浮かべた。こんな表情も出来るのかと、青波は新鮮に感じてしまった。
彼女の目には、今、青波は彼女の最愛の男に見えているはずだ。
――峡 汀。
美女と名高い、透国の正妃は、暗がりの中で魔性の艶めきを放っていた。
「どうして、お前がここに? これは夢なのかしら?」
「………」
外見を作りだすことは出来ても、人となりは分からない。青波が返答に困っていると、しかし、正妃は逞しい想像力で補完してくれた。
「ふふふっ。夢でもいいわ。嬉しいもの。良いところに来たわね。凱」
――凱。彼女にとって、よほど親密な人物なのだろう。証拠に正妃は春霞の寝台から離れると、青波に近づき、親密な距離でないと聞こえないほどの小声で毒を囁いた。
「お前もこの男の最期が見たかったのでしょう? 今夜が峠だから、正妃は特別にここにいても良いんですって。可哀想ね。わたくし以外、誰も看取りに来ないのよ。この国の頂点にいながら、何という孤独。……自業自得だけど」
正妃はうっとり目を細めて、自身の下腹部を撫でる。
やはり……だった。
青波は、春霞の推察が真実であることを悟ってしまった。
正妃は春霞が邪魔で、早く亡き者にしたいと、焦っていた。
――彼女は、皇帝以外の男の子供を身籠っているのだ。
発覚したら、大罪だ。死罪は免れない。
いくら沙葉との関係を荒立てたくないとしても、それとこれは別問題だ。
子供を諦めるという選択が一番かもしれないが、彼女はそれを放棄した。
そして、逆に、皇帝である春霞の暗殺に動いたのだ。
今、ここで春霞が命を落とせば……。
彼女の身籠っている子供は、春霞との子として貫き通すことも可能かもしれない。
どんなに、おかしなことでも、突破できるだけの自信を彼女は持っているのだろう。
「大丈夫よ。バレやしない。ここは先代の皇帝の使えない側近たちが牛耳っていて、腐敗している。この男が死ねば、出し抜く手なんていくらでもあるわ」
まるで正妃は歌うように、陶然と語った。
先日、青波が会った時の彼女は完全武装した状態だったのかもしれない。
とっくに壊れていたのだ。そうでなければ、いくら青波が術を使ったところで、ここまで簡単に白状しなかっただろう。
「早く死ねば良いのに……」
憎悪を含んだ台詞。だが、向けた当人に欠片も届いていないのは、皮肉な話だった。
「……汀妃。残念だけど、あの程度の毒じゃ、私は死ないよ」
「えっ」
嫌味な沈黙の後、彼は欠伸をしながら、よろよろと寝台から起き上がった。
青波には見慣れた真白い寝間着姿。一つ違うのは、帯の部分に寂れた環首刀を差しているところだ。青波が六年前、餞別代わりに渡した「天冩刀」。初めて青波が直接目にする、幽体ではない春霞だった。
「なぜ? 貴方が。……陛下?」
その光景は、彼女にとって悪夢だったに違いない。たった今、自分が何を喋っていたのか……。暴言の数々に、さすがに正妃も恐れをなしたようだった。
「や、やだ。違う。凱。何処にいるの? 凱?」
春霞から目を逸らさず、正妃は愛しい男に縋りつこうとするが、青波は彼女に寄り添うことは出来なかった。予め決めていた合図は、春霞が目を覚ますことだ。今まで、彼女の傍にいたのは、凱という男を模して作った青波の人形で「護神法」の応用。
――幻なのだ。
術を解除した青波は、待機していた隣室からすぐに動いて、今まで凱がいた場所にやって来た。一応、非礼は詫びなければならない。
「申し訳ありません。お妃様」
「何、お前? ここには凱がいたはずよ?」
「残念ながら、凱様はこちらにはいらっしゃいません。貴方様のお腹のお子様の父親は、沙葉の左将軍の御子息。溌 凱様なのではないかと陛下が仰って。私もその可能性を否定できず、貴方を試してしまいました」
青波が妃に尋問を受けた日の翌日。
丁度、三日目。
無事、肉体に戻った春霞は、景和に神符をはがすよう指示を出し、青波は「護神法」で鳥を使い、春霞に会うことに成功した。異様に慎重だった春霞が術とはいえ、青波と直接会うことを決めたのは、それだけ切迫した事態だったということだ。
そこで春霞から、聞いてもいないのに、身の潔白を切々と訴えられ、正妃の想い人なら知っていると告げられた。正妃を問い質すのなら、傍観はできないと、青波は自ら協力を申し出たのだ。
春霞の策は非情に感じたが、それだけ、権謀術策渦巻く世界で生き抜くのに必死だったのかと、悲しくもなった。
……春霞は悪くない。けど、騙まし討ちのようで、後ろめたかった。
正妃は、まるで状況を理解していなかった。
「女官達は、何処に行ったの?」
「残念だけど、汀妃。貴方が離れた所で待たせていた女官は、ここから避難してもらった」
「避難ですって?」
「貴方はやりすぎたんだよ。誰ももう貴方を庇ってはくれない。まあ、足繁く温浴場に通い、そこで郷里の男と逢引している程度なら、私も微笑ましく見守ることも出来たんだけど」
「はっ? 最初から全てご存知だったんですか。悪趣味な!」
もっともな叫びに、青波は深く頷いてしまった。青波が正妃側についたのが気に入らないらしい春霞は、唇を尖らせて言い返す。
「分かっているよ。その趣味の悪さで、命を狙われたり、今まさに、大切な人に幻滅されているってことはね。でも、子供が出来たからって、殺されたら堪らないよ」
「でも、わたくしは毒なんて……」
正妃はとっさに、白を切ろうとしたが、しかし、もう無駄だった。
「沙葉原産の毒薬だから、足がつかないって思った?」
春霞は淡々と追い詰める。多分、こういうところが、人の癇に障るのだ。
「だが、人選は慎重にすべきだった。貴方付きの女官は私が尋ねたら、すぐに白状した。貴方の指図で薬師を動かし、私に毒を盛ってる……と。本当はその時、すべてを暴いて貴方を問い詰めても良かったんだけど。死にそうなふりをして正解だった。敵と味方の区別もついたし、貴方の殺意の動機も分かった。青波のおかげだ。助かったよ」
「違います。私は」
突然、話題の中心に据えられて、青波は困惑した。決して自分は賢いわけではない。春霞が瞬氏のことにかまけず、もう少し熱心に調べていたら、正妃の懐妊はとっくに見抜けていたはずだ。
「幻華。お前……。そういうこと?」
春霞が青波に向ける熱い視線に気づいて、正妃は狂ったように、嗤った。
「馬鹿みたい! 陛下は最初から、隠していた妃を手元に迎え入れるために、大病を装い、わたくしを嵌めたってことでしょう」
「だから、それ違います。私はそんな大層な方では……」
「お黙り! 下品な娘がわたくしに直接、話しかけないで!」
そして、正妃は血走った目をして、青波の方に身体を傾けた。
「思い通りになんて、なるものですか!」
すべては、一瞬の出来事だった。突如、髪に挿していた簪を抜き取って、彼女は青波に襲いかかったのだ。