◇◇◇
 透国の皇帝が死にかかっているらしい。 
 御名を怜 春霞(しゅんか)
 即位をしてから、六年。皇帝の御年は、若干十九歳という若さであった。

(……て、まだ死んだわけじゃないけど)

 瞬 青波(せいは)はきつく絞った布を軽く叩いて、日当たりの良い場所に設けられている竿に掛けた。薄ら額に滲んだ汗を拭い、緩んできた髪を束ね直してから、うんと伸びをする。

「今日も、頑張ったな」

 色とりどりの布が、暖かい春風になびいていた。
 後宮に来て一カ月。
 青波に任された仕事は主に「洗濯」だ。毎日、天気の良い日に、膨大な洗濯物を洗って干して、乾いたら、畳んで返却する。その繰り返し作業。量だけではなく、注文も多いため、嫌がる女官も多かったが、青波はこの仕事が好きだった。
 青波が働いているのは、透国の後宮の中で最底辺の「尚寝殿」。雑用係の女官が起居している処だ。ここに関しては、皇帝の安否など関係ない。妃嬪の住まう場所でもないので、皇帝の代替わりで里に帰される心配もないから、皆、己の仕事だけに専念していた。

「青波! お昼」
「えっ、もう?」

 先輩女官の明淑が、青波の肩を叩いた。
 昼休憩の鐘は、聞こえないけど――と、首を傾げていたら、すぐに鳴った。
 皇城の真ん中に設けられた高い楼の天辺で、日に四回、三度だけ鳴り響く鐘の音が二度目の鐘を打っている。今は昼の合図だ。

「ほら、早く行かないと、また余り物になっちゃうわよ」

 明淑は青波がいつも遅れて食堂に行くことを心配してくれているらしい。
 そばかすの目立つ浅黒い顔に、白の上衣に地味な灰色の裾裳の少女。灰色の裳は、後宮最下層の地位を示す証しで、青波もお揃いだった。

「有難う。でも、やっぱり、私は後から行きますから。先に行って下さい」
「あ、そう。一応声は掛けたからね」

 相変わらず、つかず離れずの程良い距離感で、明淑は青波の前を通り過ぎて行った。彼女とそれに続く娘達の後ろ姿を見送り、完全に一人になったところで、青波は崩れるように、その場にしゃがみこんだ。

「一カ月……」

 長かった。
 青波は女官の仕事を気に入ってはいるが、ずっと後宮で過ごすつもりはないのだ。目的を果たしたら、すぐに出て行くつもりだった。
 ――それなのに。
 
(何一つ、思い通りに出来ないなんて)

 とりあえず、後宮の内部にさえ入ってしまえば、どうにかなると思っていた。青波は自分の能力に慢心していたのだ。

「今回も、無理っぽいな」

 独りぼやきながら、深衣の懐から、一枚のぼろ紙を取り出して広げた。
 青波は、八百年前に滅んだ「瞬」という国の王家の末裔だ。「瞬」の王族は、特殊な能力を持っていて、青波もそれを継いでいた。
 もっとも、長い年月の間に一族の血は薄まり、術も形骸化してしまったため、現在、青波以外、家族で術を使える者は存在していないのが実情である。青波に術を教えてくれた祖父も、能力に恵まれていなかったため、父親から二つの術を伝授されたら、それ以上習わなかったらしい。
 祖父が継承した術の一つが「護神法」と呼ばれているもので、青波の得意技だった。
 半紙に、予め墨で描いていた鳥。そこに人差し指を犬歯で噛んで、滲んだ血を一滴垂らす。すると、それは大きな鳥に変化して、青波の耳目となり、様々な情報を収集してきてくれるのだ。
 そうやって、青波は六年間、皇帝怜 春霞の様子を見守ってきた。
 ――しかし。今は何の変化も起きない。

「駄目か」

 日に三度、いろんな場所で試しているのだが、術が発動する兆しはなかった。皇城を対象にしなければ、発動していたのだから、やはり、皇帝の近くから妨害されている可能性が高い。
 青波が異変を察知したのが二カ月前。その頃から皇帝の容体は悪化していると言う話だから、益々、怪しかった。 

(こんなこと出来る人間が私以外に存在しているなんて思えないけど、最悪な事態も想定しておかないと)

 嫌な予感に焦燥感が募っても、能力が使えない青波は無力だ。
 絶望しながら、頭上の空を睨み、その真下に聳える巨大な白壁を見上げる。この壁の向こうに、皇帝が住まう「星辰殿」があるはずだ。
 どうにかして、星辰殿に忍びこむことが出来たら……。
 だけど、さすがに王城内で最も警備の厳しい場所に、小細工もなしに入り込むことなど不可能だろう。
 このまま、青波は何も出来ず、彼の死を待つしかないのだ。

『青波!』

 ――子供の頃。
 今でこそ、雲の上の存在になってしまった春霞だが、青波の知っている彼は無邪気な子供で、いつも柔らかい声で、青波を呼んでくれたのだ。

『青波! 青波!!』

 懐かしい。けれど、何度も呼ばれるので、妄想にしては、しつこいと感じ始めてしまった。

(なんか、現実に呼ばれているみたいな。まさかね)

 ――が。その、まさかだった。

「………えっ?」

 気配があった。誰かが青波の背後にいるのが分かる。
 誰何するより早く振り返ると、そこには、だらりと長い純白の長袍姿の……。懐かしい面影を宿す白皙が、素足で突っ立っていた。

「どうして?」

 青波は、生まれて初めて己の目を疑った。
 ――なぜ、こんなところに彼がいるのか?
 今の今まで、必死に頭を捻って会うことばかり考えていた人物。
 間違いない。
 今、まさに死にかかっている皇帝・怜 春霞その人であった。